小暮写眞館
近ごろしょっちゅう投げやりな気分になる。
別に何があったというわけではない。日々はいつも通りだし、大した事件もないし、自分で言うのも難だが「幸せな毎日」だと思う。
だから不意にあーあ、と思ってしまうのは、完全に自分の内側のことが原因だ。
ありていに言ってしまえば、嫌なことを考えてしまうのだ。いや、嫌なことと言うより、嫌な感情と言ったほうがいいかもしれない。たとえば沼の底から気泡がぼこりと湧き上がって、ヘドロを舞い上げるような感じだ。
誰かに騙されたとき、傷つけられたときに、「それをした人間が抱いていたであろう感情」に思いをはせてしまって、げんなりする。心の中を漂うヘドロは、なかなかもとあった場所に沈んでくれない。
それは空が綺麗だなあとか、今日は寒いなあとか、そういう何気ない気持ちと同じようにやってくる。思わぬときに訪れるものだから、こちらとしては心の準備のしようもない。そーっと忍び寄って心臓をわしづかみにされるような感じだ。
おまけに自分の気持ちではなく、分かった気になっている他人の感情なので、なおさら始末が悪い。だって自分の感情ならどうとでもできるけど、推測した他人の感情をどうすることができよう。
ただ押し黙って耐え忍ぶのみ、である。
そんなわけで、最近の私は投げやりで、もっと言ってしまえばむしゃくしゃしている。
ではそれを私はどうやって解決するか。この手段は私が子どものころからちっとも変わっていない。いくつになっても効果的だ。
本を買う。もしくは図書館、図書室で借りてくる。
これに尽きる。
今回買ってきたのは、宮部みゆきさんの「小暮写眞館」だ。
主人公の花菱英一は、内輪のときだけ「ちょっと変」な両親が買った、商店街の中の元写真屋で暮らすことになる。
それだけでも十分悩みの種なのに、ある日英一のところに、これまた「ちょっと変」な写真がやってくる。いわゆる心霊写真というやつだ。
心霊写真を「ちょっと変」で済ませていいのか分からないけど、まあよかろう。
その心霊写真の謎は、花菱家の新居である小暮写眞館と関係あるらしい。英一は持ち込まれてしまった写真の謎を解き明かすため、イカした友人たちと調査に乗り出す。
うーん、話は間違ってないはずなのに、これではこの物語の持つ温かみが伝わりそうに無い。
しかしネタバレをしてしまうのは本意ではない。ネットに迂闊なことを書いて「ネタバレだ!」と炎上するのは避けたいのだ。
どうせ炎上するなら、もっと積極的に自分からガソリンをばら撒いて、派手に燃え上がらせたい。いやそんなことする予定、ないんだけどさ。
もうちょっとだけ説明するなら、これは「人の気持ちの物語」だと付け加えたい。
だってそうでしょ、心霊写真なんてそれこそ思いのカタマリじゃん。うんうん、間違ってないよ。
読み終わって感じた。
「大当たりだ」
我ながら非科学的ではあるが、私には自分に必要な本を引き当てる超能力がそなわっていると思う。
小暮写眞館には、避けようと思っても避けられない不幸や、人と人とのしがらみから生まれる軋轢が描かれている。
地理の授業で習った中に、断層というものがあった。両側から圧力がかかって、当然そのままでは耐えられないから、上下に力が逃げてしまって地層がズレてしまうのだ。
人間関係で生まれる歪みは、そんなようなものだ。
だけど人と人との関係なら、圧力を弱めればもとの形に戻すこともできる。完全に元通りにはならなくても、それに近いくらいには。
そして断層を元通りにするためには、もしくはよじ登って乗り越えるには、必要なものがある。
宮部みゆきさんは「小暮写眞館」でそれを語ってくれている。
巻末の解説を書いている兵庫慎司さんは、
「愛」とか「真心」とか「誠意」とか、そこまでのものではない。「思いやり」でもまだ重い。もっとあいまいで、ささやかなものだと思う。「親切」とか「おせっかい」とか、あるいは「心配」とか、それくらいの言葉がちょうどいいような。
とそれを表現する。
ああ、いいなあ、と思った。なんだかもっともらしい愛やら、真心やら、響きはいいけどピンとこないものが世の中には多すぎるのだ。
人が救われるのは、そんな運命的なものじゃなくて、もっと生活に根付いた当たり前のものによってである。
世界には当たり前のように不幸や悲惨があって、それは毎日誰かしらの上に降りかかっている。
家にお金がなくて、行きたい道を歩めないかもしれない。いじめのターゲットにされて、学校に行くのが憂鬱になるかもしれない。
とつぜん恋人に、身勝手な理由で別れを告げられる人も居るだろう(ざまあ見ろ、なんて思ってません)。
そんな遣る瀬無いもろもろに磨り減った人が、ふっと救われるのは、劇的な出来事によってではない。
誰かの小さなおせっかいによって、私たちは自分が誰かに思われる存在であることを知るのだ。
ちなみに私は電車の路線図というものが壊滅的に苦手で、大阪の駅で立ち往生してしまったことがある。
困っていたところに大阪弁のおばさんが声をかけてくれて、だけど今度は券売機が動かなくて困った。後ろで待っていたおじさんが焦れて、「はよしいや!」とかなんとか声を荒げて、それで二人はケンカになった。
自分が原因で争う二人を見て、「私のために争うのはやめて」と泣きそうになっていたら、駅員さんが「この券売機壊れてるんで……」と声をかけてくれた。
ちくしょう、それなら故障中ですって書いとけよ!
「小暮写眞館」は辛い出来事や悲しい思い出から、ポンと足を一歩踏み出すような物語だった。
先ほど(ほんとうについ一時間ほど前だ)読み終わったばかりなので、まだ心のどこにこの物語を落とし込めばいいのか分かっていない。
大切なものを持っているんだけど、それをどこに置いておけばいいのかわからなくて、とにかく右往左往しているような状態だ。
わけも分からないまま文章を書いている。推敲もあんまりしてない。
それでも、今この瞬間に何かを書かなきゃと思って、夜更かししてパソコンに向かっている。
私自身は、昔あったイヤなことに、未だにケリをつけられていない。
嘘をつかれて、こちらからは思い入れたのに結局向こうからはなんとも思われてなくて、歯がゆいし腹立たしい。そういう経験。
実に不毛だ。
ほんとは過去の不幸なんか蹴っ飛ばして、さっさと前を向けるはずなのだ。それをしないのは、私が自分でそれを手放したくないと思っているからなのだ。
なんてことを言うと、作中に出てくる垣本順子から、「バッカみたい」と吐き捨てられるだろう。
英一曰く、「この音声を採取し東京都の水源に投下したならば、都民皆殺しは確実」な声で。
いっそそうやって斬り捨てられたいと思う。きっと爽快だ。
バカなんだ、私は。
それが一つ分かっただけでも、儲けものだ。
「小暮写眞館」には、ごくありふれた日常を切り取った写真がたくさん飾られている。
私はそれを尊いと感じ、ここにそう記す。
写真も文章も、形にして残すという意味では変わらないのかもしれない。
そしてやっぱりそこには、撮った人とか撮られた人とか、書いた人とか書かれた人の気持ちが表れるのだ。
今日の日の小さくて特別な感動を、忘れずに生きたい。