あなたの器用で分厚い手が好き
七月に入ってから、なるべく自炊をしている。惣菜やコンビニ弁当ばかりの食生活だと、なんだか心がすさむのだ。
しかし料理というのは、作るのに三十分から一時間くらいかかるのに、食べるのは数分で切ない。諸行無常を感じる。
結局惣菜なんかですまそうが、自分で料理を作ろうが、なんだか虚しい気持ちからは逃れられないんだなと思う。世の中のお母さんは、うんともすんともいわない旦那や息子相手に、毎日頑張っていてエラい。いただきます。
ああ(もぐもぐ)、生きるのって(むしゃむしゃ)なんて虚しいんだろう(ごっくん)。ごちそうさまでした。
しかし今の季節は、台所に立つのが暑くて仕方ない。とにかく暑いので、少しでも身を軽くしようと、散髪に行くことにした。
何度かお世話になった美容院は少し遠いので、今回は近くの美容院を探してみる。いわゆる美容院難民なので、地域の美容院を転々とする日々だ。
さて、いざ予約の日となった。向かわねばならぬ。よくその店の前を通るので道に迷うことはないが、家を出る直前になって重要な問題に気づいた。
私は普段、よれよれのTシャツにジャージといういでたちでうろついている。しかし今回私が予約した美容院は、デザイナーズ物件とでも呼ぶべき代物だった。
こんな格好で気軽に入ったら、ドレスコードにひっかかってつまみ出される可能性がある。それはマズい。せっかく予約したし、私はもう髪の毛を切る気がマンマンなのだ。
あわててよそゆきの服を探すが、まともに衣替えもしていなかったのでどれもこれも押入れ臭い。くそう、こんなことなら大掃除をした六月のあの日に、ついでに衣替えもしておくんだった……!
何を言っても今のかっこうが悲惨であることにかわりはないので、昔の自分を恨みながら押入れをあさる。
奇跡的にまともな服を掘り当てたので、慌ててそれに袖を通して美容院へ向かった。
なんとか時間ぴったりに美容院に到着し、そろそろと扉を開ける。ふむふむ。外見通り中もオシャレで、空気中にオシャンティ物質が漂っているようだ。
なんだか天上も高いし、照明もきらびやかで、ドラマにでも出てきそうな雰囲気である。
そして扉を開けて数秒。だ、誰も声をかけてくれない!
勝手に座っていいのかも分からず、ただドアの前にアホみたいに突っ立つ私。ようやく気づいて声をかけてくれた店員のお兄さんがイケメンだったので、全てを許してしまったことだよ。
しかしこの店内、見事に女性の客しかいない。入った瞬間の店員の無関心さといい、もしかしてこの美容院って女性専用?今からでも女性のフリをしたほうがいいかしら。
もしほんとうに女性専用だとしたら、かなりの恥をかいてしまう。にわかに緊張が走り、涼しい店内で脂汗を流す私。そして相変わらず無頓着な店員たち。
あぁ、そこでおばさんとにこやかな笑顔で話している青年が、私にも笑顔を向けてくれたなら……!
苦行に耐える僧のような気持ちで、すみっこのほうのイスに座っていると、美容師のおじさんが問診表をもってきてくれた。
すべきことができたので、これ幸いとそれに没頭するフリをする。休み時間に「オレは本を読んでいるから」というスタイルを貫く、友達のいない学生のような気持ちだ。学生時代を思い出すぜ。
読んでいくと、カットの要望だけでなく、心配や不安についてもアンケートが設けられている。
「ハゲの不安がある」「頭皮が荒れている」「髪の毛が傷んでいる」などの選択肢が、チェックボックスに印を入れるような形式で並ぶ。
大気中にオシャンティ物質が漂う美容院で、ハゲの不安について思いをはせる。店員に突っ込まれたらうまく返せる自信がないので、チェックはいれなかったけど、男なら誰だってハゲが不安じゃないか?
できればハゲたくはないのだが、今のところはふさふさで心配はしていない。むしろ量が多くてうっとうしいくらいだ。
問診表(これにも○○チェックシートのようなオシャレな名前が書いてあった気がしたが、忘れた)をおじさん美容師に返す。
返す時に初めてその人の姿をマジマジと見たのだが、全身から「カリスマ美容師オーラ」を漲らせていた。
奇抜なファッションで全身からカリスマオーラを放っている人たちは、なぜあんなにも似通った雰囲気をまとっているのかいつも気になる。
特におじさんおばさんに多いのだが、いったいなんなのだろう。
彼らをあつめてファッションショーをしたら、なんだか新しい市場が開けそうな気がする。カリスマ中年雑誌とかもできたりして。
脳内でカリコレ(カリスマコレクション)を開催していると、初めに声をかけてくれたイケメンのお兄さんにイスへ導かれた。
深紅のひざ掛けを後ろからかけられ、イスの高さを調節してから雑誌をもってきてもらい、なんだか王子様気分である。くるしうない、ちこうよれ。げっへっへ、よいではないか!よいではないか!
せっかくの王子様気分から、一瞬で悪代官に堕落する私。邪な妄想を膨らませる。
邪悪な気配を察知したのか、お兄さんはさっさと去っていってしまった。なぁんだ、あの人がカットしてくれるわけじゃないのか。
入れ替わるように現れたのは、例のカリスマオーラ溢れる美容師さんである。以下カリスマさんと呼ぶことにする。
「今日はどんな感じにするとか、ご要望はありますか?」
「そうですね、結構伸びてきて鬱陶しいので、短めにしようかなと」
「なるほどですねー」
謎の相槌をうちながら、パラパラとヘアカタログをめくるカリスマさん。
散髪のたびに思うのだが、ヘアカタログを見せながら「この髪型にしてください!」というと、「私はこういうイケメンになりたいんです!」と宣言してるみたいで気恥ずかしい。
かといって何もなしで切ってもらうと、思っていたのと違う出来になることが多い。
そういう意味で、すぐ横でヘアカタログを見ながらちょうどいい髪型を探してくれるこの美容院は、私にとってかなりいい店であると言えよう。
たぶん他の店でも言えばやってくれるんだろうけど、それを要求するのがまたハードルが高いんだよなぁ。
カット自体は特に問題なく、事前に話し合った髪形より少し短いくらいで落ち着いた。すっきりして、生まれ変わったような気持ちである。
「じゃあもう一回シャンプーしてもらいますねー」
そういったカリスマさんのかわりに現れたのが、最初のイケメン店員である。
俄然テンションが上がってしまい、再び邪悪な妄想を漲らせる。
再び気配を察されたのか、白い布を顔にかけられ、シャンプー台に寝かされる。
「じゃあ倒しますね」という発言を、脳内で押し倒すという状況に置き換えてすこしドキドキしてしまう。
そっと後ろ頭に手をいれられ、温かなお湯で髪の毛を流しながら、頭の各所を撫でられる。あっ、そんな、ダメ……!
私の(心の中での)静止も聞かずに、彼は手のひらであわ立てたソレで、私の肌(頭皮)を柔らかく揉みはじめた。
外が見えないように布をかぶせられているせいで、彼の手が触れる部分に神経が集中してしまう。首筋や耳の後ろに触れられるたびに、心臓が跳ねる。
頭を持ち上げられ、顔が近づいた瞬間に伝わる息遣いに、越えてはならない一線を越えてしまいそうになる。
再びシャワーで髪の毛についた泡をおとした後、彼はいい香りのする布で、優しく私の頭をぬぐう。
細かやかな手つきにくすぐったさを感じていたら、不意に指を(耳の)穴にひっかけるように差し込まれて、思わず顔を背けそうになってしまう。
「終わりましたよ」
その声で私は我に帰った。
はー、サッパリしたぜ。
短くなった髪の毛を鏡の前でいじくりまわしながら、お兄さんが戻ってくるのをまつ。なんでも初回サービスで、マッサージをしてくれるそうな。
これ以上イケメンの手によって体をいじられると、大変なことになってしまいそうだ。
そんな煩悶を知ってか知らずか、彼はその温かくて分厚い手のひらで、私の身体にそっと(以下割愛)
マッサージをしてもらいながらお兄さんとお話をしていたら、仕事の話になった。
「なんで美容師になったんですか?」
「中学のときに進路どうするんだーって聞かれて、『そうだ美容師になろう!美容師かっけぇし!』ってなったから、そのまま美容師になった」
「そりゃまた即決ですね」
「そうだなー。勉強嫌いだったから、大学とかいきたくなかったんだよね」
「あれ、でも高校はいったんですか?」
「高校も、美容師学校と提携してるところに入って、そっからまっすぐ美容師になった」
照れくさそうに笑うお兄さんからは、働く男の包容力が伺えた。彼は頭のよさなんかよりも、ずっと大事なものを知っているのだ。
そしてそれは、日々の生活の中で自分で感じ取っていくことでしか知りえないものなのだろう。
外まで見送りにでてくれたお兄さんの笑顔は、夕日を受けて色濃く、温かなものに見えた。生きている人間らしい笑顔だった。
お兄さんのかっこよさに触れた私は、さっそく晩ご飯をつくるのをサボろうとしていたのを恥じ、スーパーまで出かけてきちんと晩ご飯をつくった。せめてきちんと生きねば。
うーむ、今日のご飯はなんだか味付けが薄かったな……まぁいい、うまいうまい……味付けが薄いのはキムチと食べ合わせてごまかそう。もぐもぐ。
晩ご飯を食べたらすぐに洗い物をし、風呂に入る。ワックスをつけてもらったので、それを落とすために念入りに洗う。
髪の毛を洗いながら、しばらく前から少しばかり痛みを訴えている、眠れる森の美女(親知らず)を舌でいじっていると、不意に「ガリッ」という音がした。
え、もしかして今、歯、欠けた?
口の中からポロリと出てきた、明らかに歯の欠片と思しきものに、呆然とする私。
次回に続く!