死と睡眠

 午前三時に痛みで目が覚める。

 キリキリと針金で絞られるように胃が痛むのを、シーツにすがりついて耐える。少し伸びていた爪が布地にひっかかってめくれるが、指先の痛みが内臓の苦しさを忘れさせてくれる気がしてかまわず力を込める。

 

「だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ――……」

 

 呪文のように口の中で唱える。

 この痛みは本物じゃない、だから大丈夫。僕の体は健康だ、だから大丈夫。三食ちゃんと食べてる、だから大丈夫。寝る前にもらった薬も飲んだ、だから大丈夫。

 真っ暗な部屋の中で痛みに苛まれながら、安心できる材料になりそうなことを羅列する。だけどそうすればするほど、そんな風に考えてしまう自分は大丈夫じゃないんじゃないかと不安になる。そしてまた繰り返す。

 

「だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ――……」

 

 やがて痛みが少しずつ遠ざかり、心の底からもう治ると思えた瞬間に消えた。さっきまでの痛みが嘘のようになんともなくなって、ただ指先だけがじんと熱をもっている。暗闇の中で目をこらしてみると、本当に爪が少しめくれてしまったみたいだった。

  時間を問わず襲い来る腹痛に悩まされ始めたのは、中学生のころだ。学校で飽きもせず繰り返されるいじめに精神をすり減らして、少しずつ食が細くなって、気が付いたらちょっとしたことで胃が痛むようになっていた。保健室に行きがちになった自分の背中をせせら笑う声が聞こえる気がして、ますます身を縮めながら過ごした。当時のことを思い出そうとしても、あまり細かいことは浮かんでこなくて、ただ黒々とした気持ちになる。人間は忘れることができる。それは偉大な機能だ。

 

 ガチャッ。ガチャガチャ、キィー。

 

 不意に家の中に鍵の音が響いた。僕は布団の中で身を縮める。

「はぁ……」と部屋まで聞こえてくるため息。そして靴を脱ぐ音、乱暴に歩く音。それら全部に聞こえないフリをする。「いい子」は夜中に起きていちゃいけないから。

 そうしてしばらく息をひそめているうちに、足音は隣の部屋に吸い込まれていった。しばらくして、壁越しに笑い声が響いてくる。聞きたくないのに聞こえるそれに、ぎゅっと耳をふさぐ。手首を流れる血の音が、地の底を静かに流れる溶岩のようで、少しずつ心を落ち着けてくれる。

 

 次に苦しくなった時は、耳に手を当ててこの音を聞いてみよう。

 そう思いながら自分の生きている音に耳を傾けているうちに、僕は眠りに落ちていった。

 

 虐げられているわけではない、と思う。むしろ甘やかされている方だ。与えられる食事、与えられる娯楽、何不自由ない生活。

 だけどその暮らしの底には、僕が「いい子」だからという暗黙の了解がある。僕はあの人にとっての「いい子」、なんでも言うことを聞いて思い通りに動く人形。自意識も自我も、あの人の許す範囲でだけ持つことを義務付けられている。そしてその範囲を少しでも逸脱した途端に、あの人は豹変する。

 

 ――どうしてあんたは、だからあんたは、そんなんだから。

 

 響き渡る怒鳴り声に身をすくませ、嵐が過ぎ去るのを狭い小屋の中で祈るように、身を縮める。僕はどこでも小さくなるばかりだ。背中を丸めて、顔を上げないでいればなんとかなると信じている。

 だけど心の中にいる自分が、一生懸命に叫ぶ。このままじゃダメだ、君は君という一人の人間なんだ。虐げられることに慣れてはいけない、自分を見捨ててはいけない。人はそれぞれ感情を持つことを許されているし、したいことをする自由がある。環境的に無理でも、いつかそうなるために努力することはできる。お願いだから自分を諦めないで。

 

 僕はその声を聴くたびに、わけもなく焦燥感に駆られる。だからもう聞きたくない。目を閉じて、穏やかな暗闇の中でずっと眠っていたい。死ぬ勇気もない僕は、寝ている間だけ死んだ気分を味わえる。いっそ次目が覚めなければいいのに。

 眠りは自発的に行うことを許された唯一の娯楽だ。

 

 おやすみなさい。