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「悲しい」と「さみしい」

小噺

 私は学生のころ先輩につれられて、とあるサロンに通っていた時期がある。そのサロンは商店街から少し外れたところにあるこじんまりとした店で、ドアのガラスから透けて見えるカウンターには店主の大柄な女性がいつもニコニコと笑いながら座っていた。大輪のひまわりのような笑顔とピンク色のこじんまりとした内装がちぐはぐで、だけどとても暖かい店だった。

 彼女のもとにやってくる客は様々だった。年頃の女子高生がやってきたかと思うと、化粧水などつけたこともなさそうな男がドアをたたく。考えてみれば私も結局買い物をせず仕舞いだった。彼女と話すためだけにその店にかよっていたが、彼女からしてみれば商品を買いもしない客に居座られて迷惑だったかもしれない。しかしどんな客にも嫌な顔ひとつせず対応していた彼女は、「人と話すこと」自体を楽しんでいたんだなと思う。 

 ところが数年前の11月、木枯らしが枝から葉を吹き散らすように彼女は突然この世を去った。サロンへ行こうかどうか迷っていた時に先輩から届いたメールで訃報を知った。無機質な携帯電話の画面に表示された文章にはあまりにも現実味がなくて、店へ向かえば彼女がいるような気がして向かってみたら、ガラス戸の奥のカウンターは一人ぼっちで夕暮れのなかにポカンと浮かんでいた。

 

 知っている人が死ねば衝撃や悲しみが襲ってくるものと思っていたが、私が感じたのは「そうか」という納得だった。そうか、突然いなくなってもう二度と言葉を交わせなくなるということもあるのか。そしてそれはこういうことか。たくさんの話をした人がいなくなってしまったことについて感じたのは悲しみよりも、納得とさみしさだった。

 何かを失ってしまうことへの「悲しみ」と「さみしさ」は似ているようで違うものだ。「悲しみ」は自分に向かう感情で、「さみしさ」は相手に向かう感情だ。そして往々にして「悲しみ」の力は強く、人はそれに押し流される。間違った「悲しみ」は自分が一人ぼっちで苦しんでいるような錯覚を引き起こし、孤独になることでますます心に爪を立てる。だから葬儀が必要なのだ。愛が深ければ深いほど喪う苦痛が大きくなって、現実と向き合うことが難しくなるから、ちゃんと死と向き合う場が必要なのだ。

 葬儀は死者以上に、その人のいない世界を生きる者たちにとって必要な儀式だ。死と向き合いそれを悼んで涙を流し、その人がこの世を去ったことを心に納得させる。自分自身に爪を立てるような激しい「悲しみ」を、穏やかにその人を想い懐かしむことのできる「さみしさ」に昇華するのだ。

 

 元気いっぱいだった彼女が突然消えてしまったように、別れはいつ訪れるかわからない。だから私は、私が生きている限り私以外の人たちは必ず先に死ぬということを肝に銘じようと思う。

 久しぶりに懐かしい商店街の外れのあたりを歩いてみたら、こじんまりとしたあの店はまだあった。中に入っている店はかわってしまったようだけど、あの大柄で陽気な女主人が気に入っていたピンク色の内装はそのままだ。目を細めると、ふっとカウンターにあの人が見えた気がした。