愛としょうゆはエッセンス
風邪をひいてしまって、ここ二日ほど寝込んでいた。
いろいろとしんどいことがあって、肉体的にも精神的にも無理がきていたのだと思う。体が「ちょっと休め」のサインを出したのだ。
一年の中には決まった行事がある。
年越し、バレンタイン、ひな祭り、こどもの日、誕生日、敬老の日、クリスマス、etc...
私の場合はそれに「風邪をひく」というのが含まれる。
休日をつくらないと日本のサラリーマンが働き続けてしまうように、病気にでもならないと私は動き続けてしまうからだ。
ベッドの中で熱っぽい体をもてあましながら、なんだかこの時期はいつもこうしている気がするなと気づいた。
そこで思い出してみると、私は春になると毎年風邪をひいているのである。
だいたい4月の2週目~5月の3週目までの間に風邪をひく。
少なくともここ六年ほどは毎年ひいている。人の体というのは不思議なものである。
私は寒いのが好きで暑いのが苦手だ。だから春が近づいて温かくなってくると、無意識にストレスを感じてしまうに違いない。冬の生き物なのだ。
それにくわえて、春になると毎年環境が変わる。それにもついていけずにうろたえているのかもしれない。
人間の体ってよくできてるなあ。私よりも私のことを分かってくれているようだよ。
いや、体だって私なんだけどサ。
しかしこう毎年風邪をひいていると、こっちも慣れてくるというものだ。
昔は「このまま熱が下がらなくてしんどいままだったらどうしよう」「もしかしたら別の病気かも」と心配をしていた。
しかし今となっては図太いもので、「風邪だからどうどうと一日寝とけるわい」ってなもんである。
病気になってまで頑張るのってナンセンスだよね、しんどいときは休めばいいのだ。
そこで家でグータラ本を読んですごしていた。なに、いつも通りだって?返す言葉はない。
読んでいた本は「守り人シリーズ」だ。
上橋菜穂子といえば、ご存知のかたも多いのではないだろうか?
上橋さんの描く世界はすべて、人のいとなみに対する深い理解と愛情がにじみ出ているすばらしいものばかりだ。
セリフ一つとっても大事なことにハッと気づかせてくれる。
以下はネタバレを含むので、これから読むつもりの方は注意されたし。
主人公のバルサは、幼いころに国の陰謀によって故郷をおわれ、養い親のジグロとともにあてどない旅をしていた。
追手がいつあらわれるかと心休まらない日々を送るうちに十年の月日が流れた。
その頃バルサは、ただ自分を守るためだけに故郷から離れて追手と戦い続けるジグロに対して、やりきれない申し訳なさを感じていた。
だからジグロにこう言ったらしい。
「わたしはもう、自分の身は自分で守れる。追手に負けて死んだら死んだで、それが私の人生だって。もうジグロには充分たすけてもらった。もういいから、他人にもどって、どうか自分の一生を生きてくれって、ね」
するとそれに対して、ジグロはこう答えるのだ。
「いいかげんに、人生を勘定するのは、やめようぜ。不幸がいくら、幸福がいくらあった。あのとき、どえらい借金をおれにしちまった。……そんなふうに考えるのはやめようぜ。金勘定するように、過ぎてきた日々を勘定したらむなしいだけだ。おれは、おまえとこうして暮らしてるのが、きらいじゃない。それだけなんだ」
この言葉を読んだとき、わたしの風邪っぴきで鼻水まみれの顔に涙まで追加されてしまった。
人はときに自分が傷つくのもかまわず、だれかを守ろうとしたりする。
その不思議をこれほど分かりやすく伝えてくれる言葉があるだろうか。
たいせつだと思う人を守ろうとするとき、そこには貸しだとか借りだとか、そんなちんけなものは存在しないのである。
自分を愛してくれる人には、ただ身をまかせればいいのだ。遠慮するのはかえって失礼ってなもんなのだ。
やさしい人ほど世話をかけまいとするけれど、ちょっと考えてみればわかる。
好きな人に頼られて、うれしくないわけがあろうか。
たがいを支えあうというのは、そういうことでもあると思う。
なーんてことを考えながらおじやを作っていたら、また途中でしょうゆをいれ忘れた……。
しかも半分くらい食べてから、「なんだか味がうすいなあ」と気づいた。そりゃそうだよ。
気づいてしまうと物足りなくてしょうがないので、ぽっちりしょうゆをたらしてみた。
うむ、あとから入れても問題ないな。うまいうまい。
人生における愛も、おじやのしょうゆと同じようなものかもしれぬ。
なくても食べれる。でもあればよりおいしい。
そしてそのよさが分かれば、あることがしみじみ嬉しくなる。
どうかあなたが、だれかの味気ない人生のしょうゆになれますように。
ていうか、わたしの人生のしょうゆはどこなのだ。はやくきてほしい。
このままじゃ食べ終わってしまうことですわよ?