その線を抜かないで
私の家の近くには、小学校から高校までそろっている。そのため、朝や夕方にでかけると、通り道でかならず学生たちに会う。
とくに大通りに出るには小学校の前を通ることになるので、わらわらと走る小さな子供たちをひいてしまわないか、気をつけながら自転車をこぐ。
今日も夕方ごろにでかけていたら、小学生の群れとはちあった。キャイキャイと甲高い声で騒ぎながら楽しげに歩く姿が、とても愛くるしい。
常々思うのだが彼らの無邪気な様子とか、外でも周りを気にせずに騒ぐ純粋さは、その道の人にはたまらなく魅力的に映るに違いない。子どもがそんなに好きでない私ですら、挨拶されると思わずぎこちない笑顔を返すくらいなのだ。
週末で明日がお休みだから、やたらとテンションの高い彼らを眺めながら自転車をこいでいると、どことなく違和感があることに気づいた。なんというか、少し物足りないというか。
これは決して「男子のくせに短パンをはいてないなんて、生足が見れないじゃないかけしからん!」であるとか、「もっと無邪気な笑顔をお兄さんに見せておくれよ」であるとか、そういう話ではない。
確かに最近の小学生は冬場になるとよく長ズボンをはいていて、せっかくの冬の風物詩が台無しだなぁと感じることはある。しかしだからといって、それに対して忸怩たる思いを抱いているわけではない。断じてない。
なにが変なのかなぁと小学生を眺めていると、保護者とおぼしき奥様方に不審そうな目で見られた。違うんです、決していやらしい目でお宅のお子さんをみているわけではないんです、と言い訳したくなる鋭さだ。
やはり自分の子どもが見知らぬ人にジロジロと見られるのは、誰だって嫌なものだろう。
ここまで考えて、ふと思い至った。
名札だ!名札になにもかいてない!
胸元に確かに名札をさげてはいるのだけれど、どの子もそれが真っ白なのだ。名前を書いていない名札、それに果たして意味はあるのか。
よく見てみれば、名札をとめるピンのすぐ下に金具がついていて、表裏をくるりとひっくり返せる仕組みになっているらしい。
確かに学校名や学年、自分の本名などを誰にでもわかる形で胸に下げるのは防犯上いいとは言えないだろう。誰にでもどこの誰だかすぐにバレてしまう。
名前を知られていると、いたいけな子どもは「お母さんに名前を教えてもらったんだよ」なんていわれたら信じてしまうかもしれない。
犯罪者があの手この手で獲物を狙うように、狙われる側も知恵をしぼっているのだと思い知らされた次第である。
今の世の中がそんなにも安全な場所じゃないのだなと思うと、なんだか切なくなってしまう。みんな悪い人間だというわけではないのだけれど、ちょっとしたことで人は悪人に仕立て上げられる。
そういう萌芽を摘むためにこそ、子どもたちは名札を隠したり目立つように防犯ブザーを身につけたりしているのだ。それらは一種の鎧のようなもので、私は周囲を警戒していますよとアピールするような役割を持つのである。
しかしその鎧を着ている子どもたちに「人を信じましょう」「困っている人を助けましょう」と語ることの矛盾に、私は目をつぶれない。
というより、今の世の中では、人を信じることよりも先に、人を疑うことを教えられるのだ。世知辛い世の中である。
私も小学校のころに、不審者の目撃情報があるたびに「知らない人についていってはいけません」「迂闊に話してはいけません」と言われてきた。
今の小学校では、怪しい人に話しかけられたらとにかくすぐに防犯ブザーを鳴らすように教えられるらしい。しかし子どもたちにとって、知らない大人たちはみんな怪しい人に見えるのではないだろうか。
どこかで、女子学生に「こんにちは」と挨拶したら通報されたという話を聞いたが、これからはそういうことが日常的に起こる世界になるかもしれない。
なんせちょっと道を聞こうと学生に声をかけたら、怪しいと判断されてブザーをならされる恐れがあるのだ。おちおち道も歩けない。
特に私などは、部屋着のモコモコで毛玉だらけのセーターを着こんで、空腹に導かれるまま近所のコンビニまでフラフラと出歩いているので、通報確定である。恐ろしすぎる。
警察は不審者に声をかけられた子どものために走ってくれても、不審者に勘違いされてブザーを鳴らされた私のためには走ってくれまい。
道端で泣いている子どもに声をかけたとしても、話しかけられたことに動転してその子に防犯ブザーの線を抜かれたりしようものなら、泣くことになるのはこっちなのである。
新年早々、社会的に弱いのはどっちなのかについて考えさせられた。守られるということは後ろ盾があるということである。
彼らの後ろ盾は国家だ。変態に未来はない。
いや、変態に未来があったら困るのだが。ぜひとも自家発電の範囲でとどめて欲しいものである。
あまったエネルギーは、うちの電気代にまわして欲しい。