素直

 大丈夫か聞かれて、大丈夫じゃないと答えられる人はどれくらい居るんだろう。少なくとも俺は無理だった。大丈夫じゃないなんて弱さの証で、言ってはいけないのだと思っていた。のっぺらぼうみたいな笑顔を貼りつけて自分にも他人にも大丈夫と言っていれば、ほんとうに大丈夫なんだと信じていた。

 ある日、友だちと好きな人の話になった。俺はその日、家を出る前に親とケンカして、登校中の車に水たまりの泥水を跳ね飛ばされ、忘れていた宿題を教師に見つかって叱られて、なんだかもう手も足も出ない気分だった。だからいつもなら何気なくやり過ごせる答えが、喉に引っかかって出てこなかった。

 やばい、いま浮いてる。なんていえば誤魔化せるだろう。それ以前に取り繕うのも変か。ていうかなんで俺が誤魔化さなきゃいけないわけ、いつもいつも無神経なやつばっかりで。俺が悪いのか、当たり前の話題に乗れなかったら悪いのか。なにこいつ、みたいな顔されてる。ああ、めんどうくさい。

 人間の間の空気というのは一瞬で澱む。そして一度澱んだ空気は、換気して時間をおかないと入れ替わらない。俺はその場で取り繕うのを諦めて、ちょっとトイレと席を立った。ごめんよみんな、悪口でもなんでも言っていいから、戻るまでに空気を戻しておいてくれ。そうしたらいつも通りの顔をするからさ。

 なんとかションベンを絞り出して振り返ったら、グループの一人が立っていた。なに。なんでもないけど。なんでもないのに背後に立つなよ、こええって。俺はなんでもないけど、お前はなんでもあるかなーって思って。なにそれ。んー、なんだろ、勘かな。そっすか。

 気にしないことにして手を洗っていたら、後ろから声をかけられる。なんかさー、お前無理すんなよ。はぁ、無理とかしてないけど。そうやって突っ張ってたらさあ、周りもなんもできないんだぞ。

 なんだそれ、なんだそれ。気持ちも分かんないくせに、適当なことばっか言ってんじゃねえよ。そう言いたいのをこらえて、はいはいと笑うと、あいつは俺のほっぺたをむにっとつまんで、元気かと聞いた。大丈夫か聞かれたら大丈夫だと答えられるけど、元気か聞かれると言葉につまった。つきなれてない嘘は、とっさに口から出てこないものらしい。

 ぽんっと軽く腰を叩いて、あいつはトイレを出て行った。ああ、置いていかれたと俺は思った。妙に聡いクセに肝心なことには気づかないで、きっと俺の知らないところで、俺の知らない生活を送っていくのだ。あいつは。

 元気じゃねぇよ。ボソッと呟いたら、トイレの出口からひょこっと顔がのぞいた。

 今のはなかなか素直でした、もっと素直になるといいよ。