命の魔女

 か細い光をともす星々が、頼りなげにまたたく新月の夜。人々は街の集会所に集まっていた。それほど大きくない集会所の中は、蝋燭の火によって照らされている。壇上の右側には、立派な装飾の施された背の高い椅子が置かれ、正装に身を包んだ年若い王が腰かけていた。

 多くの観衆が見守る中、不意に蝋燭の火が揺らめいた。場内が一瞬暗くなり、誰もが目を細めて壇上の様子を見ようとする。そして何人かが、あっと声を上げた。いつの間にか舞台の左側に、長身の女が現れていたのだ。それは「現れた」と形容するしかない唐突さだった。ともすれば、魔法でたったいま姿を見せたとでも言わんばかりの。

 女は身体のラインに沿った、ぴったりとしたドレスをまとっていた。襟や袖口、腰元には、優雅なレースの飾りがついている。頭にはとがった先端と広いつばを持った、大きな帽子をかぶり、そしてその全てが、夜空から暗闇を借りてきたかのような、鮮やかな漆黒だった。揺らめく蝋燭の明かりに照らされ、まるで影法師のように見える姿の中で、横顔と袖口から覗く手首だけが白骨のように浮いている。

 

「皆さま御機嫌よう、魔女集会へようこそ。今宵も王のため、参上いたしました」

 

 女の声が、たくさんの銀の鈴を鳴らすように、しゃらしゃら響く。気を呑まれたように女を眺めていた王は、はっとして答えた。

「ご足労痛み入る。我が国の友、命の魔女よ。またひと月分の薬と、幾人かの民のための魔法を頼みたい」

「かしこまりました。薬はこちらにございます」

 女が流れるような手つきでドレスの裾を払うと、足元に袋が現れた。観衆からはどよめきが上がるが、王の隣に控えていた側近は動じることなくその袋を受け取る。王によって民からの嘆願が伝えられ、女はそれに応えることを約束する。

 そして最後に王は、今宵は貴女にもう一つ頼みがあると言った。女は首を傾げた。

 

「先日、烏の濡れ羽色の髪と目を持った子が生まれた。これは高い魔力を持つ証であることは貴女もご存知だろう。本来なら親元で育てさせるところだが、その子の母は子を産むと同時に亡くなり、父はどこの誰とも知れぬ。

 今は孤児院に預けられているが、院長から私のもとへ『魔力を持つ子は、それを制御できず人を傷つけてしまうことがあると聞きます。できることなら、魔女様にこの子を導いていただけないでしょうか』と手紙がきた。

 彼の幸福のため、預かってはもらえないだろうか」

 

 女は細い指を顎にあて、少し考えているような素振りをした。そして答えた。

 

 ――かしこまりました。

 

□□□

 

「まじょさま、どうしてたべてもたべてもおなかがすくの?」

「まじょさま、ありはどうしてじぶんよりおおきいものをもてるんでしょう」

「魔女さま、空にうかぶ雲はなにでできているんですか?」

「魔女様、この魔導書の記述についてなんですが」

 

 言葉を覚えた途端に、子どもは色んなものに興味を持ち、魔女はその質問のそれぞれに丁寧に答えた。時に自分にも分からないことを問われれば、「それはあたしにもまだ分からないのよ、だから一緒に答えを探しましょうね」と微笑んだ。

 魔女によってキラナと名付けられた子どもは、あっという間に大きくなり、魔女は魔力の扱いを少年に教え、生活の端々を任せるようになった。

「魔女様、なにか食べたいものはありますか?」

「そうね、肝臓がいいわ。あとは卵とか、ほうれん草とか」

「魔女様はいつもそれですねえ」

 少年は笑い、魔女のために料理をし、家を片づけ、仕事を手伝った。街に出かければ「おう、魔女様んとこの小僧じゃねえか。これも持ってけ!」「あら坊や、お使いかしら。たまには魔女様にも顔を見せてほしいって伝えてくれる?」と声をかけられた。住民の尊敬を集め、愛されている師のことが誇らしく、自分もいつか人々のために魔法の薬を作れるようになろうと心に決めていた。

 しかし魔女は簡単な魔法を教えてくれるだけで、はやく薬を作る魔法を教えてくれと少年が頼んでも、貴方が成人したら教えましょうと微笑むだけだった。

 

 □□□

 

 少年は二十歳の誕生日を迎える五日前から休みをもらった。魔女は少年がまだ幼子だった時に作ってあげた料理から、最近覚えた贅沢な食事まで、毎日腕によりをかけて食卓を彩った。

 そして誕生日の前日、少年に話をした。

 

「あたしはもう三百年近く生きているけど、こんなに幸せな二十年はなかったわ。長く魔法を使い続けると、魔力が体になじんで長生きになるけれど、そのかわり子どもを作る力がなくなるの。だから子育てなんてすることになるとは思わなかった」

「でも魔法使いや魔女は世界に何人かいるんでしょう? 彼らはどうやって生まれるんです?」

「キラナ、貴方と同じよ。魔力は血で宿るものではないから、たまたま魔力を授かった子はその近くにいる魔法使いが導くの」

「そうなんですか、じゃあ俺は幸運だったんですね」

「どうして?」

「だって魔女様に導いていただけたんですから。俺、街中の人たちに慕われて、尊敬されている魔女様が師匠で、とても誇らしいです。明日になったら成人ですし、薬の作り方も教えてくださいね。弟子として、魔女様にばかり負担させてはいけませんから」

「まぁ、頼もしいのね」

 

 ふふ、と魔女は微笑み、少年も照れくさそうに笑った。背が伸び、細くて枝のようだった体は肉がついて逞しくなり、まだ幼い横顔には微かな男らしさが備わってきている。もう少年と呼ぶのがふさわしくなくなりつつある彼に、魔女は少しの寂しさを感じた。

 

「ところで魔女様、成人になっても名前は教えてもらえないんですか?」

「そうね、名前は力あるものだから。あたしたちは迂闊に自分の名前を他人に教えてはいけないのよ。貴方も力ある魔法を使えるようになればわかるわ。もしあたしが貴方に名前を教えるとしたら、いなくなる時か死んだ時ね」

「名前を聞く気が失せました……」

「ふふ。でも貴方になら任せてもいいかしら。もしもあたしがいなくなる日がきたら、この家の整理をお願いね。危険な魔導書はないけど、魔法をかけて開けなくしてある本があるの。あたしがいなくなれば魔法が解けるから、中を読んで貴方の判断で処分してちょうだい」

「そんな日がきたら、ですけどね。黙っていなくなったりしたら、恨みますよ」

「そんなことしないわ、あたし挨拶にはうるさいもの」

 

 魔女はむっとしたように唇をとがらせる。その仕草がおかしくて少年が笑うと、つられて魔女も笑った。

 二人はまるで、ほんとうの親子のようだった。

 

□□□

 

 その晩は満月だった。月の明かりに遠慮したのか、星々は姿を見せず、空のてっぺんで丸い月が、ぽつんと孤独に光っている。魔女はベッドに横になって、楽しい夕食の時間を思い出しながら、窓から月を見上げていた。

 やがて外から、ずり、ずり、と足を引きずるような音が聞こえてきた。音は扉の前で止まり、ドアノブが回る。

 扉を開けたのは少年だった。彼の瞳は光を失い、ただの洞のようだ。

 

「この日がこなければいいと願っていたわ。でもそうはいかないと分かっていた。必要なことはすべて教えたから、あとは貴方次第。さて、どうなるかしらね」

 

 魔女は憂鬱そうにため息をつく。

 少年は手の中にある刃を振り上げた。月光を受けてきらめく刃は、深々と魔女の胸に突き刺さった。

 

□□□

 

 どうして、どうしてどうしてどうして――。

 どうして床で寝てるんだどうして魔女様の部屋でどうして魔女様の胸に刃物がどうしてどうしてどうして憶えてるんだ肉に刃物が突き刺さる感覚どうして俺がどうしてどうしてどうして――。

 

 次の日の朝、少年は床にうずくまり、意味の分からない状況に頭を抱えてただひたすら何が起きたのか考えていた。しかし考えても考えても答えは出ず、ただ自分が魔女を刺してしまったことだけが胸に浮かび、何もできずに頭を抱える。

 やがて起き上がって、魔女を揺り起こそうとした少年は、その体に触れたことを即座に後悔する。ひんやりと冷たい体は、すでにそこに命が宿っていないことを端的に示していた。何をすることもできず、する気も起きず、少年は涙すら流せないまま魔女の匂いのするシーツにすがりついていた。

 

 太陽が空を渡り、外の世界が茜色に染まるころ、ごとりと物が落ちる音がした。

 少年が緩慢な動作でそちらに目を向けると、一冊の本が落ちていた。

 

「ああ、魔女様の言いつけ……」

 

 昨夜の魔女の言葉がよみがえる。「別れの挨拶はきちんとする」なんて言って、伝えられた言葉そのものが別れの挨拶だったじゃないか。自分が死んだ後の話をするなんて。まるでこうなるのを知っていたみたいに。

 ゆっくりと立ち上がった少年は、本を拾い上げて開いた。中には魔女の書いた字が並んでいる。

 

 ――これを読んでいる貴方は、どんな気持ちでいるでしょうか。きっと悲しい思いをさせてしまっていることでしょうね、ごめんなさい。だけどこうなることをあたしは避けられなかったの。

 

 書き出しを目にして、少年は目を見開いた。それは彼への手紙だった。

 

 ――貴方には呪いがかけられていた。それは『成人の日の夜、あたしを殺す』という単純なものだったけど、貴方自身の魔力と絡みついていてあたしには解けなかったの。きっと呪いをかけた人間は素人だったのね、貴方が魔力の扱いを少しでも間違えば、呪いが歪んで自分の命を奪ってしまうほど捻じれていたわ。

 計画したのは貴族か、王に近しい誰か。あたしの存在は、国にとって大きくなりすぎた。王よりも発言力のある人間が、不安要素としてうつったのでしょう。まったく馬鹿馬鹿しい、あたしは国になんて興味がないのに!

 

 ――あたしはこの国の最初の王と友人で、国を影から守ってやってほしいと頼まれていたわ。あたしは『命の魔女』として人々のために薬を作り、彼はそんなあたしが民に恐れられないよう、魔女集会を作った。歴代の王が魔女集会に民を集め、その前で私が薬を渡すのも、パフォーマンスの一種ね。魔女は薬を作り、民の願いを聞いてくれる、有難い存在だと示すための。

 だけど人の身勝手な頼みを聞いたり、薬を作ってもほんとうに苦しんでいる人に行き渡らない現実を前に、あたしは無力だったわ。正直、何年も同じことを続けていて飽き飽きしていたのね。だから、後進を育てて殺されるのも悪くないかと思った。

 

 ――人生の最後に、こんなに素敵な思い出ができて嬉しいわ。貴方はとても優秀な弟子で、あたしは誇らしい。呪いが解けるまで強い術を教えられなかったのが残念。できることならこの手で教えてあげたかった。

 ねえ、キラナ。貴方の名前の由来を知っている? 太陽の光という意味なのよ。貴方はあたしにとって、陽だまりのように暖かくて、夜しか出番のなかったあたしの人生に昼間を呼んでくれた。ひんやりと冷たいあたしの手を貴方が握ってくれた時、その温もりにびっくりしたのを憶えているわ。

 

 話がキラナのことに及ぶと、少年の頬を熱が滑り落ちた。それは後から後から溢れてきて、本を濡らさないように拭いながら、少年はページをめくる。そのページのインクはまだ真新しく、昨夜書かれたばかりのようだった。

 少年の瞳の奥に、机に向かって書き物をする魔女の姿が浮かぶ。

 

 ――約束だったわね、いなくなる時にはあたしの名前を教えると。二十年も隠してきたのに、こうしていざ教えるとなると不思議な気持ちだわ。なんだか照れくさいわね、これまでの人生であたしの名前を呼んでくれたのは、師匠と、初めの王と、その息子くらいだったかしら。

 

 ――「カウム」。私の名前は月明りを意味する言葉よ。できることなら、生きている間に貴方に名前を呼んでほしかった。だけどまだ遅くないわ、もし近くに私の身体があるなら、どうか手を握って名前を呼んで頂戴。それが何よりの手向けだから。

 

 もう少年は耐えられなかった。

 

 本を放り投げて立ち上がると、ベッドに横たわる魔女の手を握り、その体にしがみつくように覆いかぶさって、少年はボロボロと熱い涙を流した。

 

「カウム様、カウム様――!!」

 

 初めて知った魔女の名前を繰り返しながら、少年は涙を流し続ける。これまでの日々が走馬灯のように流れ、そのどれもこれもが光り輝いて見えた。

 少年の慟哭は家じゅうに響き渡る。

 

 ふと、少年は涙をこぼしている目元の布が、濡れていないことに気づいた。

 魔女の服に落とした涙は、確かにしみ込んでいるのに、その場所がすぐに乾いていく。顔を上げてよく見ると、染みが動いていくのが見えた。

 

「…………?」

 

 自分の涙が空中で軌道を変え、一か所に吸い寄せられていく。西日が魔女の胸に突き刺さったナイフを照らし、そのナイフの根本へと涙が集まっていくのだ。

 涙はきらきらと光りながら、魔女の胸元へ染み込む。黄昏の光と水分が反射して、ぼんやりとした虹色の光が広がり始めた。

 

 ふと、少年は自分が握りこんでいる手が動いたように感じた。気のせいではない、確かに動いた。

 

「カウム、様……?」

 

 信じられないものを見るように、だけどその声に少しの希望を込めて、囁くように名前を呼ぶ。ひとしずくの涙が、今度は胸元に引き寄せられることなく、握り締めた魔女の手の甲に落ちた。

 

 次の瞬間、光がはじけた。

 

 魔女を中心にして衝撃波が起き、キラナの黒い髪の毛がぶわっと持ち上がる。真っ黒な瞳は魔力の発現と同時に深い藍色に変化し、海の宝石のように光る。

 胸に突き刺さった刃物が勝手に持ち上がり、ずるりと抜けた。それと同時に魔女が深く息を吐き、目を開いた。

 

 

 それは命の魔法。

 魔女が少年に教えていた魔法は、すべて人を癒す魔法に必要な下積みだった。彼女の教えは少年の中で息づき、呪いという枷が外れて自由になったとたんに、一つの形をなしたのだ。

 それに加えて、三百年を生きた魔女が体に練り続けた魔力と、少年が持っていた強い魔力。魔女の名前と、なにより純粋に『母』を想う子の涙。魔女は少年に別れを告げる準備を整えながら、たった一つの可能性に向けて微かな希望を紡いでいたのだった。

 

「ああ、キラナ。起こしてくれたのね。もう朝かしら」

「ま、魔女、さま……」

「あら、もう名前で呼んでくれないの?」

 

 悪戯っぽく笑う魔女に、少年は抱き着いた。

 

「カウムさまぁ――!」

「はいはい、子どものころに戻ったみたいね。泣き虫さんなんだから」

 

 魔女は少年の頭を、あやすように撫でた。

 太陽と月の名前を持つ二人は、黄昏の光の中で、確かに親子だった。