読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

花束を私に

 あの、大丈夫ですか。

 しとしとと雨が降る道端に佇む男性に思わず声をかけてしまったのは、その人があまりにも悲壮な顔を、まるで今すぐにでも車道に飛び出していくんじゃないかというような顔をしていたからだった。真っ黒な傘をさして真っ黒なスーツを着て、髪の色も目の色も真っ黒な人だった。左手に持っている落ち着いた地味な色合いの花束だけが、その人に色彩を添えている。

 男性は声をかけた私に向かって不思議そうに首をかしげて、「大丈夫です」と答えた。それから手に持った花束を、なんの変哲もない塀の足元に置いた。男性は黙祷するように目を閉じてしまったが、なんとなくその場を離れるタイミングを失った私は馬鹿みたいにぽかんと突っ立っていた。

 

「あまり雨の中にいらっしゃると風邪をひきますよ」

 目をあけた男性に言われて、慌ててありがとうございますと頭を下げる。それからちらりと花束を見て、事故ですかと聞いてみた。男性は「そういうことにしています」と答えた。

 てっきり誰かがここで事故にあって、その誰かはこの人にとって肉親とか親しい友人とかで、それを思い出してあんな顔をしていたのだと思っていた私は、その妙な返事に面食らってしまった。私の表情が面白かったのか、男性はふっと笑って「なにもそんな顔をしなくても」と言った。

 

 すみません、不思議なお返事だったもので。

 そう言うと、「そうですね。せっかく心配して声をかけて頂いたんですから、事情をお話ししましょう。初対面の人間が適切な距離感をもって会話するにはあたたかいコーヒーや紅茶があるといいと思うのですが、いかがでしょうか」と聞いてきた。回りくどい言い方だけど、なんだか詩的な気がしたので少し気取って、喜んで、と答えた。

 

 近くのカフェに入って男性はブラックコーヒーを、私は苦いものは好きではないので紅茶を頼んだ。店の中は閑散としていて、私たち以外には2組ほどの客がいるだけだ。

「実はですね、さっきの花束は私宛なんです」

 口火を切った男性の言葉に、私ははぁと曖昧な相槌をうつ。

「生きてると死んじゃいたいと思うことってたくさんあるじゃないですか。テストでいい点がとれなかったとか、クラスで仲間外れにされてるとか、好きになった人に恋人がいるのを知ってしまったとか、志望校に落ちたとか、面接に落ちたとか、上司に理不尽なことを言われたとか、仕事に行きたくないとか、もう何もかもめんどくさいとか。でも実際に死ぬことはできない。積極的に自殺するほどのモチベーションもない場合がほとんどです。だけど逃げ場がないとフラストレーションはたまっていく一方で、それが原因で精神を病んでしまうことだってある。そこで私は思いついたんです。それなら何か嫌なことがあった時には、自分がそれを苦に死んでしまったことにすればいいんじゃないか、と」

 そこで男性はいったん話すのをやめて、そっとコーヒーをすすった。私も紅茶に口をつけて、砂糖を足す。

「嫌なことがあって嫌な気持ちになった私は、トラックの前に飛び出して自殺をしてしまった。だから今の私はその嫌な気持ちから解放されている。前の私が自殺してくれたおかげで今の私は心穏やかなのだから、前の私を弔うべきである。私が自殺するのはあの場所と決めているので、何かリセットしたいときは花束を持ってあそこに行くんです。自殺するために」

 

 でも、それって、結局なんにも解決しないですよね。

 遠慮がちに言うと、男性は「とんでもない」と首を振った。

「解決します。少なくとも自分の気持ちは。今日だって一人の私が自殺したから、今の私はこんなに心穏やかなんですよ。気分転換の仕方は人それぞれ、私の場合はそれがちょっと手が込んでいるというだけです。あなただって気分転換したいときくらいあるでしょう?」

 そう言われてしまうと返す言葉もない。私は紅茶のカップを両手で持ち上げてすすった。紅茶は話している間に少し冷めて、砂糖をいれすぎて甘ったるくなってしまっていた。

「ほんとはほんとに死んじゃいたいんですけどね、そうできないので窮余の策というわけです。喪服を着て花束を持てば、案外そういう気分になるものですよ。どうですか――」

 

「あなたも一緒に」

 

 男性は話し終わると、コーヒーを飲み干した。

 私は財布から二人分のお金を出して机の上に置く。男性は止めようとしてくれたが、いい話を聞かせてくれたお礼だと言うと「そうですか」と引き下がってくれた。

 ついでにカバンをごそごそとまさぐって、中からある物を机の上に出す。

「これは?」

 聞かれて、私はにっこりと笑って答えた。

 

 今日の交流の記念品です。捨ててくださっても、とっておいてくださっても結構です。

 

 私が出したのは無骨な縄だった。近いうちに使おうと思っていたけど、自分を殺すアイテムとして縄よりは花束のほうが美しいと思ったのだ。まずは花束を試してからでも遅くない。

「とっておきますよ、せっかくなので」

 男性はそう言ってくれた。私はにっこりと笑ってカフェを出た。雨降りの平日だけど、きっと花屋はやっていることだろう。