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世界は手の届く範囲に置いておきたい

 とうとう冬がやってきた。布団の中がぬくぬくと居心地のいい季節だ。

 あと少し、もう少しと布団にこもっているうちに起きなきゃいけない時間を過ぎて……なんて日常茶飯事なのではないだろうか。

 もう目が覚めているのに、布団をめくったとたんにひんやりとした空気が入り込んできて、ついつい長居してしまうことだよ。

 

 さて、最近私の頭を悩ませているのは、パクリアカウントの存在だ。

 どうにも私のパクリアカウントがあるらしく、いろいろな方が「ちょっとこんなのありますよ!」と教えてくれる。

 これまでは特に気にせず放っておいたのだが、むしろ周りの人のほうが気にしているようで、なんだかいたたまれない。

 

 私がパクリアカウントをこれまであまり気にしていなかったのは、結局彼らは自分でものを生み出しているわけではないからだ。

 私は自分で考えた妄想たちに、自信をもっている。ささやかなかわいいホモが愛しくて仕方ない。

 自分自身に価値があるかと問われると首をひねってしまうのだが、自分で生み出したものたちには価値があると自負している。だって彼らは誰かにとってではなく、私にとって価値があるのだから。

 私は私が好きだから日々妄想を重ね、それを偶然この世にあったツイッターという場所で吐き出しているのだ。

 私が生み出したものの価値は私にとって絶対であり、他の人にパクられたところで、その価値は揺らがないのだから、気にすることはない。

 

 しかしよくよく考えてみれば、自分のネタでほかの人がお金をかせいでいたら、それってちょっと癪じゃない?

 だってネタを考え出したのは私なのに、ネットにあるからという理由でそれを勝手に使って、あまつさえ金儲けをしているのだ。むむむ、なんだかこれは腹が立つぞ。

 これがもしも時間をかけて描いた絵だったり、必死で書き上げた物語だったりしたら、かなり傷つくんじゃないだろうか。

 

 そう、傷つく。自分が作ったものを「よく知らない誰かが作った便利なもの」程度に見られて、いいように利用されるのは、傷つく。

 ちょっと頭を使えばそれが悪いことだとわかるはずなのに、思いやろうともされないことは、とても悲しい。

 世の中のことというのは往々にしてそうで、現実よりもどう思われているかのほうがメンタルに与えるダメージは大きい。

 

 たとえば、会えないことよりも、会おうと思ってもらえないことのほうがつらい。

 理由があって会えないことは、さみしいことではある。しかし向こうに「会いたい」と思ってもらえていれば、そのさみしさは和らぐものだ。

 「会いたい」とすら思ってもらえないのは、こちらにちっとも思い入れがないということで、これはもうどうしようもないほどに悲しい。それこそお布団に引きこもって泣いちゃいたくなるだろう。

 

 ネットというのは因果なもので、面と向かってコミュニケーションすることがないものだから、画面の向こうに人間がいることを忘れがちだ。だから、現実の付き合いならしないような冷たいことも平気でしてしまう。

 人の作品を盗むのだって、学校や会社で知り合った人相手なら、きっとしないだろう。

 ネットで何か言おうとしたときに、「友だちと面と向かって話しているときに、自分はこんなこと言うだろうか」と考えてみれば、ちょっとないなって発言をしている人は多いのではないだろうか。

 

 ちなみに私は現実でもホモを投下されると、我を忘れてたけり狂ってしまう。なので、公共の場では極力ホモに触れないようにしている。危険だからな。

 興奮している時の特徴としては、「早口になる」「妄想がとまらなくなる」「それらが口から駄々漏れになる」などがあげられる。

 「お前はわかりづらい人間だけど、こういうときだけはほんとうに素直だな」と、友人に揶揄されてしまうくらいだ。

 好きなことにくらいまっすぐに生きて悪いかこんちくしょう。

 

 世の中は情報技術の発達によって、確かに便利になった。でもなくなったこともたくさんある。

 私は子どものころ、友だちの家の前までいって「○○くーん! あーそーぼー!」と叫んでいた。その子のお母さんが出てきて、お菓子をもらったこともある。

 友だちに家から電話をかけるときはドキドキしたし、なんだか大人になったような気分だった。

 私の世界は、自分で見て聞いて触れる範囲にあった。どんなこともリアルに感じることができた。

 

 だけどインターネットが発達して、携帯やパソコンを持つようになって、自分にコントロールできないつながりが増えてしまったなと思う。

 特にツイッターなんかはそうで、よく知らない人がよく知らないところで楽しそうにしている情報なんて、ほんとうにどうでもいい。どうでもいいのに見てしまって、窓の外から暖かい家の中をのぞくようなさみしさを味わったりする。

 友だちは教室や公園で顔を合わせて初めて知り合うものだったのに、いつの間にか電波をつたって顔も知らない誰かとなんとなく繋がるのが当たり前になってしまった。

 

 確かにネットは便利だけど、そのせいでなくしてしまったものは、思いがけないほどたくさんある。今の生活に慣れすぎて、自分が何をなくしたのかすら分からないこともしばしばだ。

 そういうとき、胸にぽっかりと穴が空いたような虚しい気分になる。何かが足りない、だけどその何かがわからない。穴を埋めるために、繋がりをふやして楽しんでいるように見せかけても、なぜかいや増す孤独感。

 

 なんだか評論のようになってしまったけれど、私は別にネット社会を否定するつもりはない。便利だし、全力で甘い汁をすすっているしな。

 ネットがあるからこそ生まれた素晴らしい作品だって、たくさんあるのだ。

 だけど気軽に繋がれるぶん、関係性が希薄になっていくのは怖い。パクリアカウントというのは、その過程で生まれたものだろう。

 ネットを介して、このまま関係性がどんどん希薄になっていったら、何が起こってしまうんだろうなあと思う。

 

 逆に、あたらしいつながり方で、面白いこともたくさん生まれるかもしれない。ていうかすでに生まれている。

 みんなが自由に意見を述べたり、繋がれたりする場所というのは、新しい考えが生まれるのにもってこいな環境だ。

 

 なんだか小難しいことを考えてしまって疲れた。

 結局のところ、何事もいい面とわるい面があるのだ。いいとこどりして生きていきたいものである。