抜いた歯は天井裏に投げるか、軒下に放ろう
人気のない山の麓に建てられた、とある建物。そこには老若男女問わず、数多くの人が訪れていた。
建物はいくつかの部屋に区切られ、それぞれの部屋で仰向けに寝かされた人々は、指や特殊な器具など、さまざまなものをいれられる。
中には麻酔をかけられ、ひときわ手練の者によって奥の奥までまさぐられることもあるそうな。
私は道に迷いながらもそこへたどり着き、年上の男性の手によって穴に詰め物をされるのだった――。
というのが、前回までのあらすじです。
ちょっと!今あんた、いかがわしいこと考えたでしょ!
私が行ったのは歯医者よ!は、い、しゃ!
虫歯になって穴のあいた歯に詰め物をされ、何をするにも口の中に違和感をおぼえながら二週間。ついに運命の日が訪れた。
そう。私は今日、眠れる森の美女(親知らず)を揺り起こすのである。
まずは別室に通されて、歯の状態と抜歯についての説明を女性の歯科衛生士から受ける。
「あの、麻酔は痛いですか?」
「うーん、まぁチクッとはしますね。だけど最近は技術も進んでるので、最初のチクッ以外はぜんぜん痛くないですよ」
「麻酔した後、歯を抜くのはもちろん痛くないですよね?」
「歯を動かすので押されてる感覚とかはあると思いますが、痛みはないです」
「そうですか」
「ほかに質問は?」
「痛いの以外は特に……」
とにかく痛みを警戒する私に、にこやかに説明してくれる。なんだか安心な気分になってきたぞ。
「虫歯とかぜんぜんない健康な歯ですね。すばらしいです」
「はぁ。普通虫歯ってあるものなんですか?」
「まぁ二十年も生きれば、だいだいみなさん少しはありますね」
虫歯がないというのは珍しいらしく、歯科検診でもお医者さんにびっくりされる。歯の健康にだけは自信をもっていいかもしれない。
子どものころ、歯医者が恐ろしいあまりにものすごく一生懸命歯磨きをしていてよかった。
親知らずめ、貴様さえいなければ歯医者になぞ来なくてすんだものを……。
白雪姫に勝手な恨みを抱き、毒を持った女王の気持ちもわかろうというものである。おのれ親知らず!貴様とは今日を境に、二度と会うこともなかろうよ!
そして再び待合室に戻され待つこと数分。いよいよ施術室に通された。
歯医者特有のメカメカしいイスに座らされ、口の中を確認される。口の中いっぱいに指とか器具とかつっこまれると、少しだけいかがわしいことをしている気分だ。
続いて注射を刺す場所の周辺に、麻酔を塗られる。最近は注射が痛くないよう、段階的に麻酔をしてくれるそうな。
ガーゼを麻酔の上におかれて、それが聞くまで待たされる。口の中なので唾液にとけて、麻酔がいくらか流れてくる。
苦い!!
薬物だから仕方ないし、痛みに耐えるくらいなら苦さに耐えるほうがよっぽどマシだ。それにしても苦い。もういっそはやく麻酔を注射してくれ。
たまった唾液に麻酔がまざっていると思うと飲み込むのもはばかられて、ひたすらに耐える。よっぽど苦しそうな顔をしていたのか、慌てて女医さんが「口の中につばがたまったら吐いて大丈夫ですよ」と、声をかけてくれた。
そしていよいよ真打登場である。歯科医のオジサンが「では、これから麻酔をいれていくので、口を開いてください」と言いながら、イスを倒した。
麻酔におびえながら口を開くと、「何かあったら左手をあげてくださいね」といわれる。ビビりの私は、まだ何もされていないのに半分くらい左手をあげかけたが、それを握りしめてグッとこらえる。
オジサンが取り出した麻酔は、私たちが想像するような注射とちがって、近未来的な形をしていた。白くて丸っこいピストルみたいな形をした器具の先端に、ハリがついているのである。
注射器自体も恐怖の対象なので、そのトゲのないフォルムに少しだけ安心する。
「それではいきます」
宣言とともに、ピストルがゆっくりと口の中にはいってくる。この時点で私の緊張はピークで、握り締めた左手がブルブル震えていた。
一瞬チクッとしたが、その後は何事もなく麻酔がはいってくる。はいってくるといっても確かな感覚ではないが、なんとなく圧迫されているというか、注入されている感じだ。
それでも恐怖に全身に力をいれている私に、「そんなに力をいれなくても大丈夫ですよ」とオジサンが半ば呆れて声をかけてくる。
笑ってくれるな、怖いものは怖いのだ。人体に針を刺すなんて!
少しずつ麻酔をいれて、なるべく痛みがないように取り計らってくれたおかげだろう。最初のチクッ以外は、ほとんど痛みはなかった。
しかし麻酔を入れられている間口を開きっぱなしなので、唾液がどんどん喉にたまってくる。おまけに麻酔が流れ出しているのか、唾液がふれている部分がなんだかしびれる。
苦しそうな顔の私に気がついたオジサンが、「あ、ちょっと一回つば吐きましょう」とイスを起こしてくれる。うう、お手間をおかけして申し訳ござらん。
しかし口の中の感覚のなさが、少し怖くなるほどである。麻酔ってこんな感じだったっけ?
もしもこのまま喉とかの感覚がなくなって、舌とかを喉につまらせたらどうしようと、にわかに不安になってくる。そしてそんな私の不安には頓着せず、どんどん麻酔をいれていくオジサン。
「はい、終わりましたよー。じゃあ抜きますね!」
にこやかに笑って(マスクをしているので、目だけ笑っていて少し怖い)、オジサンは私にそう告げた。
ええい、おびえていても始まらぬ!いっそひとおもいにやってくれ、親父殿!
口を大きくあけさせられ、私の左側に回るオジサン。今回抜くのは、左上奥の親知らずだ。
なにをされるのだろうと少し身構えた刹那、思い切り歯をグイグイ押される。頭が揺れ動いてしまうほどの力だ。
「ええーっ!?私の歯、どうなっちゃうの!?」
ものすごい力なので、一体何がどうなるんだろうと混乱する。そのスキを狙ったかのように、今度はペンチのような器具を突っ込んでグリグリッと押し込まれる。
「はい、終わりましたよー」
「はぇ?もうれふか?」
「ほら」
そういって見せ付けられる、先ほどまで私の肉に植わっていた親知らず。ついに眠れる森の美女とのご対面である。情緒もへったくれもない。
虫歯に冒された歯は案外グロテスクで、上の部分が見事に欠けていた。これが、この間お風呂ででてきた欠片なのね。
口を何回かゆすぎ、一時間は飲み食いしないことなどいくつか注意事項を聞かされて、薬をもらった。
診断やら麻酔やらにあんなに時間をかけたのに、抜くのはほんとうに一瞬だ。一瞬すぎて拍子抜けするほどである。
「それでは、経過の確認もかねて、一週間後にまたきてください」
受付でそう告げられ、お金をはらって帰った。
そして親知らずを抜いてはや五日。いまのところ問題はない。
ただ、これまであったものがないのは、どうにも違和感がある。
初めこそ「触ると血が出たり痛んだりするので、触らないようにしてください」という言いつけを守っていたのだが、最近はことあるごとにおそるおそる舌でさわってみたりする。
歯が埋まっていたらしきくぼみがあって、抜いたんだなぁという実感がある。
なんとなく気を使って右側で食べ物を食べていたら、昨日は頬の内側を噛み、舌をかじりとってしまった。彼女がいなくなってしまった穴はなかなか大きいようで、つまみ食いをするにも不自由な日々だ。
はやく今までのように、気兼ねなくせんべいをバリバリ食べたり、口いっぱいに食べ物をほおばりたいものである。
もしかしたら神様が、「これを機に、食生活にも気を使いなさい」と告げているのかもしれない。
できるだけ努力しますが、この傷跡が治ったあとくらいは、お祝いに思い切り食べても許して下さい。
眠れる森の美女編、これにて終幕!