素直になりたくて2014

 「もう勘弁しておくれやす!」と、大型ショッピングモールの中心で悲鳴をあげた。

 「明日から学校も仕事も始まるんだから、お前ら家でゆっくりしろよ!」なんて、自分のことを棚にあげて唇をとがらせる。

 私は人ごみが苦手だ。少しくらいなら平気だが、あまり長く人ごみにいるとげんなりしてくる。なので行列にはめったに並ばないし、初詣は時期を少しずらすし、満員電車にのるくらいなら授業には遅刻する。

 そんな私がなぜ正月早々、人で溢れかえっている場所に出かけたのかというと、Gさんに映画を見ようと誘われたからである(Gさんって誰?という方はこちらをどうぞ)。

 今回誘われた映画は「ペルソナ3」である。

 ペルソナ3は、生気のない鬼太郎のような髪型をした主人公とその仲間たちの物語だ。彼らは強力な能力―ペルソナ―を用い、今日と明日の狭間にある時間、「影時間」の謎へと挑む。

 原作はPS2のゲームなのだが、残念ながら私はそちらをプレイしていないため、きちんと触れるのはこれが初めてとなった。

 もとの話を知らないので、もしかしたら楽しめないかもしれないと少し不安だったのだが、そんな不安など吹き飛ぶほど楽しめた。ゲームの演出も本編に取り入れていて、製作陣の苦悩が伺われた。

 この映画を私なりに表現するなら、日常にある大切なものを再認識させてくれる映画だったといえよう。

 影時間という非日常の世界へ乗り込むのは、日常を持つ普通の高校生たちだ。だからこそ彼らが見せる日常的な感情が、より際立って見える。

 敵から友人や仲間を守ろうとする姿は、日常では見ることのできないものだ。私たちの毎日に巨大な敵などいないし、命を脅かされることもめったにない。

 しかし人はみな、大切な者が目の前で傷つけば後先考えずに行動してしまうものだと思う。守れる守れないでなくただ守りたいという気持ちの、なんと胸を打つことか。

 何気ない日常の中では意識しづらい大切なモノは、そこを離れて初めて強い輝きを放つのだ。

 夏ごろに続編が公開されるということで、今から楽しみである。まんまと策略にはまった形だ。

 なに、好きになってしまったものは仕方がない。課金も辞さない構えである。

 好きといえば、映画を見る前にGさんと恋の話をした。レイトショーだったため上映までに時間があまり、それをつぶすために喫茶店に入ったときの、雑談の一つである。段取りが悪いのは、今に始まったことではない。

 ちなみにそこで私たちは、抹茶パフェとクラムチャウダーを頼んだ。食べあわせが悪いのも、今に始まったことではない。

 冷たいパフェと温かいクラムチャウダーの組み合わせは、存外悪いものでもなく、おいしく食べられた。

 パクパクとパフェを胃に送り込みながら話したのは、なぜ私たちはこんなにも素直でないのかについてである。

 もちろんオタク的な趣味はここから外れる。一番素直になれるところだからな。

 私たちが素直になれないのは、ズバリ、好きな相手に対してである。食べたいときに食べ、飲みたいときに飲み、行きたくない集まりには行かず、家でマンガを読むことを愛する。

 自分の欲求にこんなにも素直なのに、好意を抱いている人の前に出たとたん、自意識過剰でめんどうくさい自分が顔を出すのだ。

 例えば飲み会に誘いたい時でも、自分から誘ったら好意が露呈するかもと、わざとその人の名を出して人づてに誘われるように仕向けたりする。

 「また遊ぼう」は日付を指定してくれても社交辞令だと思ってしまうし、向こうからの連絡はなにかの罰ゲームではないかと疑う始末だ。

 何かの流れで褒められたり、(友達として)好きのようなことを言われると、後で「あいつこんなこと言われて喜んでたぜ」と、陰でバカにされているのかもしれないと想像してしまう念の入りっぷり。

 被害妄想がバイオハザードレベルで広がり、サイレンは鳴りっぱなしである。

 その人のためにお菓子を作っても、「友達の誕生日でつくったんだけど、あまったからよかったら」なんて言い訳をそえずにはいられない。そういうのが私たちの恋である。

 なんだか遠回りしているうちに道に迷い、結局違うところにたどり着いたのに「ここが目的地だった」と言い張っているような感がある。

 こんなんだから、私は普段はその人のことが好きなのを忘れようと努めている。それで実際に忘れたりしている。うっかり道端であったりすると、「あれ?私はこの人のことが好きだったんだっけ?」と一瞬考えたりする。

 これって恋なのだろうか。

 すれ違った直後にその人のことを考えていても、男子が二人乗りをしているのを目撃してしまったりすると、十トントラックに弾き飛ばされたかのような勢いで思考がそちらへ持っていかれる。

 男子同士の二人乗りを目撃してしまうと、どうしてあんなにときめいてしまうのだろうか。

 おそらく未だに二人乗りという行為は、特に恋人同士がするものという考えがあるからだ。憧れに近い。

 それからあの距離感がよくない。どうあがいてもお互いの体が三十センチくらいの距離感に近づいているのを見れば、漂ってくる彼の匂いに後ろの彼がときめいてないとどうして言えようか、いや言えない。

 サドルの下をつかんでいる手は、ほんとうは彼の肩や腰に触れたいのかもしれないし、彼の背中に隠れている安心感に普段はみせない笑顔をみせているかもしれないのだ。

 前で自転車をこいでいる方だって、後ろに感じる重みに満足感を得ている可能性は無視できない。

 好きな人を乗せてこいでいるという感覚は確実に幸せだろうし、自転車をこぎながら笑っているのは話が面白いからってだけではないのだ。

 ……ものの見事に二人乗りに思考をもっていかれました。私の脳みそ、もしかしたら両方とも右脳なのかもしれない。

 二人乗り程度にはもっていかれないような、強靭な恋愛がしたいものである。

 頑張れ私、負けるな私!

 まずは素直さを身につけるために、初詣で神様に「素直になりたいです」ってお願いするのだ!

 そして次に、一日百回好きな人の写真に向かって「好きです」と告白しよう!

 ここまですれば、私の生霊が私に代わって、気になるあんちくしょうに告白してくれること間違いなしだ。

 自力本願なんだか他力本願なんだか分からない私の恋。叶うときはきっとこない。