誰かの幸せを願った分だけ、バカップルの不幸を願わずにはおれぬ

 まず私が述べたいのは、これから私が語ろうとしていることは、ネタバレかもしれぬということだ。

 どこまで話せばネタバレかという判断基準は、個人によって違う。物語の核心まで行かなければネタバレではないという人も居れば、もしかしたらちょっとした感想を聞くのも嫌だという人も居るかもしれない。

 感動できるラストであったというようなことを言えば、それを見ている間にどんなにハラハラしても「結局ハッピーエンドなんだろ」と冷めてしまうというのも、まぁわからなくはない。

 私はネタバレをあまり気にしない。高校時代に友人のNくんによって、毎週のように週間少年ジャン○のネタバレをされ続けてなれてしまった。彼は特にワン○ースが好きで、学校に来る前にコンビニで立ち読みしては私にその内容を報告してきた。あの謎の熱意はなんだったのか。

 思うに、きっと彼は私への優しさのつもりで話してくれていたのだ。お前も内容が気になるだろう、俺は先に読んできかたら聞かせてやるよ、と。

 いや違うな。奴は「ちょっとそれまだ読んでないし、話ついてけないから明日話そう。読んどくから」と私が言っても、まったく聞く耳を持たなかった。

 おかげで私は、週の始まりだというのに早起きして、コンビニで内容を確認してから高校へ行っていた。

 なんの話だったか。ネタバレの話だ。

 ネタバレを気にしない理由にはもうひとつある。誰かの口から聞くのと実際に見るのとでは、ぜんぜん違うと考えているからだ。

 たとえば誰かからどんなに詳細に映画の内容を話されたとしても、その映像の美しさや演出の妙技までは形容できない。同じセリフを言うにしても、俳優や声優がやるのとはまた違うだろう。

 そんなわけで私は、そこまでネタバレというものを気にしないのだ。ちょっとばかし鈍感なのかもしれない。

 枕がずいぶんと長くなってしまった。ここからが本題だ。

 先日、映画館で「魔法少女まどか☆マギカ -叛逆の物語-」を観てきた。

 泣いた。涙の後が白く頬に残るほどに。

 きっと泣いている最中の私の顔は、初めて人間の世界におりてきたトロールが人間に石をぶつけられ、「酷いよ、ぼくは悪いトロールじゃないよ」と泣いているような表情だっただろう。映画館が暗闇でよかったと、こんなに思ったことはない。

 そして映画を見終わった後、私は呆然としてしまった。人間界でいじめられて泣きながら村に帰ってきたら、自分の家が燃やされていたトロールのような表情だっただろう。 

 もう何が起きているのかぜんぜんわからなかった。

 いや、何が起きているのかはわかった。ただ「どうしてそうなった!?」としか言えない展開に驚愕したのだ。虚淵先生(まどか☆マギカの脚本を書いていらっしゃる)は、どうやら人の枠を越えてしまったようだ…。

 まどか☆マギカのいいところは、人間の黒い部分と白い部分を、どちらもあまさず活写しているという点だと思う。

 人は誰かの幸せを願うことができる。そしてそれと同じように、誰かの不幸を願うこともできる。そしてそれはたいていの場合どちらか一方だけではなくて、同じ人間が幸せを願ったり不幸を願ったりしている。

 人間は心の中に、羊と狼を両方住まわせている生き物だ。それを忘れてはいけない。

 だけども私は、人の中に眠る善性を信じたい。みんなの心の中に、良心の小さな火が灯っていると思いたい。それは誰かを好きになったり、大切に思うことで、あっという間に燃え上がる頼もしい火だ。

 自分自身の心を燃やして、自分の仲間をないがしろにする何かと戦うことができるのは、ほんとうにすばらしいことだと思う。

 そういうことを再確認させてくれる映画だった。

 しかし一方で、誰かのためが行き過ぎればそれは毒ともなる。過ぎたるは及ばざるが如しということわざもあるくらいだ。

 自分の心が暴走してしまっているときに、それがひとえに「自分のため」なら、まだ立ち止まる兆しはある。自分のためだけにそんなにも勝手に振舞っていいのか、疑う隙があるからだ。

 でも、「誰かのため」を免罪符に振りかざしたとき、人はいともたやすく間違いを犯す。誰だってそうだ。

 

「私はあなたのためにやったのに」

「でもぼくは君のためを思って」

「俺はお前を助けてやりたくて」

 どんなに誰かのためを思っていても、それが一人よがりのやり方では、きっと世界の毒になる。悩ましい。

 一番悪いのは、「誰かのため」を装って「自分のため」に動くことだ。特に私は「君を幸せにするよ」という口説き文句が好きではない。

 一見すれば頼りがいのあるセリフに見えるが、その実そのセリフはかなり一方的なものだ。

 だって「君を幸せにするよ」って、それもう一生一緒に居ることを約束するようなものですよ?ほんとうにそんなことができるのかと。

 大体にして多くの人間が、そういう言葉を大事な場面で使いすぎなのだ。それがどれほど傲慢か!

 人が人と一緒に居る限り、幸せも不幸も同じように襲い来るのだ。一人ぼっちでそれを乗り越えるのがつらいから、誰かとともにありたいと願うのである。

 それだのに「ぼくと一緒に居れば幸せだよ、すべて任せて」というような言葉を使うのは、無責任だと思う。

 二人で居るのと同じように、一人でいることも大事なのだ。私はみんなが和気藹々として活気があって、いつでも幸せという世界で生きていける自信はない。

 一人の夜、外では深々と雪が降る中で、好きな人と交わしたちょっとした言葉を思い出しながら布団にもぐりこむ。

 そんな幸福な寂しさを、私は愛す。

 いつの間にやら、無責任な愛をささやく奴に対する愚痴のようになってしまった。

 いやほんと、「魔法少女まどか☆マギカ -叛逆の物語-」はすばらしい映画でした。どなたにも勧められる映画です。

 ただ一つ難点があるとすれば、あまり大きな声で「魔法少女まどか☆マギカを観てきたよ!」とは言えないことである。

 青年と呼んで差し支えない年齢の人間がこういう名前の映画を見ることに、気恥ずかしさを覚えなくてよい未来がくることを願う。

 そしてさらに世の中のすぐに別れるカップルたちが、これ以上中身のない謎のくどき文句を多用して、私を憤激させないことを願う。

 うーん、私の中にはカップルの幸福を願う心が見当たらない……。

 世に蔓延るバカップルに呪いあれ!!