ずっと笑って2
涼しい風が吹き始め、かすかに街路樹が色づき始めた道を、おれは足取り軽く歩いていた。本の入った袋の重みが嬉しくて、足元がふわふわと落ち着かないのだ。先月多めにバイトのシフトをいれた甲斐あって、お金に余裕ができたので、以前から欲しかった本を買い込んだのだ。
「帰ったらどれから読もうかな、いろいろ買っちゃったなぁ」
緩んでしまう顔をどうにもできず、小走りで家に向かう。子どものころから、本を買うとはやく読みたくてうずうずしてしまうのは変わらない。
そそくさと帰っていたら赤信号にひっかかってしまった。本の内容に思いをはせながらぼんやりと赤色を見ていると、その下に浩太が居るのが目に入った。夏が終わって、秋らしい温かみのある茶色やオレンジをした、少し丈が長めの服を着るようになり、背が低いのもあいまって可愛らしさに拍車がかかっている。
街中で偶然出会えた喜びに、声をかけようと手をあげて名前を呼びかけた時、隣に立っている女の子の姿が目に入った。開いた口と上げた手をゆっくりと元にもどす。
高校からの友達で、密かにオレが片想いをしている浩太に、この間彼女ができた。浩太に恋して、一生懸命に浩太と仲良くなって、誰よりも浩太に信頼されるようになったオレが、その信頼ゆえに浩太に恋の相談をされたというのは皮肉な話だ。
おれが浩太のことを好きだからといって、「付き合うな」なんて言えるわけもない。浩太が幸せになってくれることだけを思って、付き合うことを勧めた。
もともと彼女がどうとか話すタイプではないので、わりと平和な日々を過ごしていたのだ。大学の中とか道端でこういう風に遭遇してしまった時は、そっとオレがその場を離れるようにしていた。自分で決めたこととはいえ、好きな人が自分以外と睦ましげに歩いているのを見ると、複雑な気分になってしまう。
このままでは鉢合わせしてしまうので、いつものように避けて帰ろうと動きかけたところで、信号が青になった。当然、信号待ちをしていた人たちは歩き出す。その中でおれはバカみたいに立ち止まってしまい、迷惑そうな顔をされながらぼうっと突っ立ってしまった。
「あっ、健一!」
そんなおれを見つけた浩太がいつも通りの笑顔でタッとかけてくるのを見て、やっぱり浩太は可愛いなぁという気持ちと、デートに鉢合わせしてしまった気まずさがない交ぜになって、微妙な表情になってしまう。
「あれ、なんだよ、なんか元気ない?いっつも本買った時はへらへらしてる癖に」
おれが脇に抱えている本屋の袋を見つけてそんなことを言ってくる。バレていたのか…。普段から浩太が自分のことを見てくれている嬉しさといっしょに、やっぱり気まずさも感じてしまう。
「いや、そんなことないよ、元気元気。それより彼女ほったらかしていいのかよ?」
「え、いや、あ、その…」
途端にしどろもどろになる浩太。そんな浩太の後ろに、いきなり置いてけぼりをくらった形になった彼女が追いついてきた。
「浩太くんのお友達?」
「こいつは健一っていうやつ。高校からの同級生」
「初めまして、私は麻奈美っていいます」
そう言って丁寧に頭を下げる麻奈美さんに思わず焦ってしまう。
「あ、えっと、さっき浩太も言ってたけど健一って言います。初めまして…」
一般的な言葉でいうなら恋敵ってやつなんだろうけど、丁寧でゆったりした口調で挨拶され、悪い印象は抱かなかった。いつでもすぐに飛んだり跳ねたり走ったりして、表情もくるくる変わる浩太とは対照的に、常にやんわり笑っていて、茶道部とか華道部とか、そういうおとなしやかなことをしていそうな雰囲気だった。長めで真っ直ぐな黒髪と落ち着いた服装が実によく似合っている。
「あ、じゃあデートの邪魔しちゃ悪いんで、おれはこれで」
「そんなこと言って、早く帰って本読みたいんだろ」
少し不満気な顔で浩太が言ってくるのを、とりあえず適当に流して、麻奈美さんに挨拶をしてその場は切り抜けた。
浩太に会った後にこんなに重い気分になったのは初めてだった。脇に抱えた本が急にずっしりと重くなった気がした。自分で言ったくせにデートという言葉に胸がじくじくと痛む。
気にするくらいなら他の言葉を選べばよかったのだが、なぜかあの瞬間、自分の喉のすぐ下にあったその言葉が飛び出してしまったのだ。
浩太の隣を、恋人の女の子が歩いている。ただそれだけでこんなに心掻き乱される。今回はあっと言う間だったし、突然の初対面で混乱していたから、ショックはそこまでなかった。しかし次からは、彼女を見るたびに「あれが浩太の恋人なんだ」と思ってしまうのだろう。考えただけで嫌な気分だ。
家の鍵を少し乱暴に開け、買ってきたばかりの本が入った袋を薄暗い部屋の床に放り投げて、ベットに倒れ込んだ。
「我ながら、バカなことしてるよなぁ…」
男を好きになってしまった時点で、幸せになれないなんて分かり切っていたが、それでも希望を持つことはあった。浩太が笑いかけてくれたり、甘えてくれることは、そういう希望を少しだけ持たせてくれた。
しかし今となっては、そんな行為は全て自分に向かって現実を突きつけるものでしかなかった。彼女が居ても態度が変わらないというのは、そこには全く特別な意味なんて無かったということだ。
目を固くつぶって、さっき見てしまったシーンを頭から追い出そうとするも、そうしようとすればするほど帰って頭にこびりついてしまう。まるで汚れた雑巾で窓を拭いているみたいに、拭いたそばから次の汚れが浮き上がってくる。消す、浮かぶ、消す、浮かぶ、消す、浮かぶ、消す、浮かぶ…。
部屋に鳴り響く携帯電話のコール音で目が覚めた。気が付いたら眠り込んでしまっていたらしく、帰ったのは夕方だったはずなのに部屋は真っ暗だった。画面を確認するのも面倒くさくてうつ伏せになったまま通話ボタンを押した。
「はい…もしもし…」
「あ、健一?おれおれ!ごめん、もしかして寝てた?ていうか寝てるくらいだったら暇だろ?今から行っていい?」
「え、浩太…?いや、おれ、えっと…」
「ていうかもう向かってるから!じゃあついたらまた電話するなー」
断ろうと思ったのに寝起きの頭ではうまい言い訳も浮かばず、言いたいことだけ言い切った浩太にブツリと電話を切られてしまう。昼間のこともあって顔を合わせたくないと思っていたのに、浩太の勝手さに少し腹が立った。
あっけらかんとしていて、周りに気は使えなさそうだが、それは上辺だけで実はなにかと周囲に気を使っている浩太にしては珍しい強引さだった。一体なんの話だろうか。
寝ぼけた頭でベットに座り込んでぼんやりと考えていたら、携帯電話が一度だけ震えて切れた。鳴らしてきたのは浩太だったので、ついたぞという合図だろう。
玄関を開けると、少し申し訳なさそうな浩太が居た。
「わりぃ、強引に来ちゃって。今、大丈夫?」
「もう来ちゃってるのに大丈夫も何もないだろ…まぁ、用事もないし、あがれよ」
そう言って部屋に招き入れると、浩太はいつにない神妙な顔で机の前に座った。
「おまえ…どうしたの…?」
「いいからちょっとお前も座れ」
訝しんでそう聞いたら、自分の向かいをさして座れと言われた。納得いかないながらも、とりあえず飲み物をコップについで、机に出しつつ浩太の正面に座る。
「健一さぁ、なんかおれに隠し事してない?」
座った途端にいきなり切りこまれた。とっさに口を開くも言葉が出なくて、また閉じてしまう。
「ほんとはさ、こんなこと言うつもりなかった。お前に何か悩みとか秘密とかあるなら、それが解決されて、おれにも話してくれるようになるまで待とうって思ってた。
でもさ、おれのこと避けるのはなんで。今までそんなことなかったのに急に避けられて、平気でいられるほど、おれは人間できてないよ。今日いきなり来たのは、その理由を聞きに来たから。昼間もお前、おれのこと避けたよな。なんで?」
険しい顔でそう問い詰めてくる浩太に、おれは何を言っていいのか分からなかった。そのほんとの理由を伝えて、その上で今までの浩太との関係を維持できるなんて思えるほど、おれはこの問題について気楽に考えてはいなかった。
しかしそれは、なんとか気持ちを秘密にして、誰にも打ち明けず、静かに耐えていれば、今の関係を維持できると思っていたということだ。そんな中途半端な状況が長持ちするはずがなかった。その結果がこれだ。
ほかならぬ浩太自身に問い詰められて、心臓が痛いくらい鳴っているのが分かる。どう答えていいのか分からなくて、苦し紛れに言葉を繋ぐ。
「避けてなんて、いねーよ…今日はただ、お前が彼女とデートしてるから、邪魔しちゃ悪いなと思って…それだけだ」
自分の口をついて再び出てきた、デートという単語に胸を軋ませながら答えた。
「おれに彼女ができたから、だけじゃないよな。確かに人が彼女といる時に距離置こうとするのは分かるけど、おれが、健一に避けられてるなって感じるようになったのはもっと前からだ。
第一、おれが麻奈美と一緒にいるところに出くわしたのは、今日が初めてじゃんか。えっと…そう、ちょうど彼女ができた時くらい。それからお前家にも呼んでくれなくなったし、なんかよそよそしくなった。なんでだよ」
容赦なく、自分の心の一番柔らかくて弱い部分に突き刺さる言葉を浴びせかけてくる浩太が、だんだんと憎くなってきた。
なんで浩太にそんなこと言われなくちゃいけないのか。
彼女ができて幸せなくせに、友達もなんて傲慢じゃないのか。
おれの――おれの気持ちも知らない癖に!!
心のどこからか、唐突にむらむらと湧いてきたこんな気持ちが、さっきまでちっとも動こうとしなかったおれの舌を急に滑らかにした。
「なんでそんなこと言われなくちゃいけねーの?」
「え…?」
「じゃあ聞くけどさ、おれがお前とずっと仲良しこよしで居なきゃいけない理由ってなんだよ?」
「そ、それは…」
浩太の表情が、傷つけられた小動物のような、苦しみをにじませたものに変わる。それを見て、これ以上はいけないと自分の中で警報が鳴る。しかし、膨れ上がってしまった思いはそんな警報などお構いなしに、腹の底から凶暴に喉へと駆け上がってきた。
「彼女ができてめでたいよなぁ!お互いに付き合い始めたばっかりで、まだまだこれから二人でいろいろ楽しいことしましょうって時期だろ?
そんな時期に、おれみたいな部外者がうろちょろしてたら迷惑かなと思って、お邪魔虫はそっと退場しようとした訳ですよ。おれなりの気遣いってやつさ。
なのにそれ捕まえて『なんで避けるんだよ』って酷いと思わねぇ?お前は彼女とよろしくやればいいじゃんか。おれが横にいる必要がどこにあるんだよ!ねぇだろ!なぁ!?
お前の一番は彼女なんだから、おれに構ってる暇があんなら彼女といっしょに過ごせばいい!今まさに離れようとしてる、微妙な距離の不確かな友達よりも、いつでも抱きしめれていちゃつける確かな恋人だろ!!」
そこまで叫んで、息が続かなくなって、ついでにやけに喉がひりついて、言うのをやめた。浩太は、最初は驚いたようにおれの言葉を聞いていたけど、途中からは感情を失った顔で叫ばれるままになっていた。
叫んでいた自分とは別のところに居る自分が、そんな表情の浩太を見るのも初めてだなと、他人事みたいに考えているのを感じた。
恐ろしい静寂のあとに、浩太がポツリと言った。
「わかった」
今更のように自分が放った言葉の重みが自分に返ってきて、それに押しつぶされそうになっているおれには、その言葉が理解できなかった。何がわかったって?
「お前がそんな風に声荒げたりするタイプじゃないのは知ってる。よっぽどなんか抱えてるってことも分かった。しかも、それだけ叫んでもその『なにか』はおれには言えないんだろ?」
「…………」
「しばらく距離置こう…ってこれ、まるで喧嘩したカップルみたいなセリフだな。大して面白くもねぇけど。お前が話すつもりになってくれたらそれはそれでいいし、話せないならそれも構わない。ただし、部活とか大学じゃ普通に接してくれ。周りに訝しがられるのは困る。今おれから言えるのはそれだけだ。じゃあ、またいつか」
そう言い残して、浩太はゆっくりと立ち上がって家から出て行った。普段の浩太からは考えられない落ち着いた反応だった。
初めて激しく叫んで、感情を露わにしてしまったおれは、しばらく放心状態で座り込んでいたが、そのままになっているわけにもいかず、手つかずで終わってしまった机の上のコップを流しに持って行った。
すっかりぬるくなった中身を捨てながら「なんでこんなことになっちゃったのかな…」と呟いてみた。口を開いた途端に、ポロポロと涙が溢れ出して止まらなかった。思わず流しのふちを掴んで、ボタボタとシンクに音を立てて落ちる水滴の音を聞きながら嗚咽をかみ殺した。
――浩太が好きだ。
思い切り傷つけてしまった直後のくせに、焼け付く様にそう思った。思えば思うほど、どうしていいか分からなくて、流れる涙をそのままにしてひたすら疼く胸の痛みに耐えた。
夜がこれほど長くて厳しいものに感じたのは初めてだった。