枯れ木ですらも山を賑わわすというのに

 私はさっきまで、ベッドに寝転がって世にも奇妙な間抜け面で天井を眺めたり、ぼんやりと携帯の画像フォルダを漁ったり、本を流し読みしたりしていた。有り体に言えば、暇をしていた。

 この「暇をする」という言葉は、わりと使われているくせに矛盾をはらんだ言葉だと思う。

 「や、○○くん。今夜暇してるかね?」

 「すみません、部長。今日はちょっと用事が…」

 使用法としてはこんな具合であろうか。

 しかし、暇とは「何もしておらず、さらにすることも無い状態。やる気も出ない状態」だと私は思っている。まさにさっきまでの私だ。本当はしなければならないことがいくつかあるのだが、そんなものは捨ておけ。

 まぁそんなわけで、「暇をする」というのは、「なにもすることがないをする」というような意味になってしまって、言葉の中に擦れ違いが生まれると思うのだ。「頭痛が痛い」や「水が断水する」というような、拭い去れない違和感がある。

 というようなことをつらつら考えていたら、「お前がいままさに暇してるんだな」と突っ込みをくらってしまいそうである。ていうか自分で自分に突っ込んだ。暇人め。

 やることやれよと思うのだが、こんなにいい天気で風が気持ちいい日に、ダラダラしない手はないのだ。明日から本気出す。

 さて、なぜ今日はこんなにダラダラしているのかというと、連日の飲み会でさすがにくたびれたからである。ふ、普段からこんなにダラダラしてるわけ、ないじゃん(震え声)。

 九月に入ってから、かなりの回数飲み会をしている。それ以外にも、昼間にバーベキューをしたり、朝からプールに出かけたりと、かなり活動的な毎日だ。

 普段どれだけ動いていないかを示すのに、これまでに友人に言われた言葉を紹介しよう。曰く、「動物園でも生きていけなさそうなナマケモノ」「夏と海と青空が似合わない」「ひきこもりオブザベスト」。

 あれ、おかしいなぁ。もしかしてみんな、私のこと嫌い?

 そんな私が珍しく動き回っているのは、ひとえに後輩たちへの愛ゆえである。もっと言うならば、年下男子たちへの愛ゆえである。

 今でこそ若者からおっさんまでイけるようになったが、私はもともとショタコンであった。年下ラブ!なのである。年下男子の頼りなさに萌え、懐いてくれる姿に萌え、あどけない笑顔に萌えてきた。

 そんな私であるから、仲良くしてくれる年下にはめっぽう弱い。どれくらい弱いかというと、レベル1でラスボスの前に立たされたRPGの主人公くらい弱い。通常攻撃を一発くらっただけで、枯葉よりも軽く吹き飛ぶことだろう。

 年下男子が大好物で、遠くから眺めていられるだけでも幸せな私が、彼らの参加する飲み会に参加しないわけはござらぬ。西に後輩たちとの親睦会あれば、お菓子と酒とを買い込んで参加し、東にアルバイト先の飲み会あれば、まだ馴染んでいない新人男子を緊張させないためという名目で話しかけ続ける。

 毒にも薬にもならぬよう気を付け、年下男子たちの水となれるよう尽力する私だ。

 飲み会では当然のようにお酒を飲むので、男子たちの口が軽くなったり、何かとノリがよくなったりするのも魅力的である。おさわりもしほうだいでゲフンゴホン。

 私は紳士的でありたいと願い、ジェントルマンであろうと努力しているので、後輩にいかがわしいことは致しません。そういうことを考えるだけだ。ヘタレともいう。

 まぁそんなわけで、方々の飲み会に参加しては、年下男子を愛でる毎日だ。とても平和である。

 飲み会といえば、先日の飲み会の際に、後輩たちの恋愛事情について聞いた。後輩たちはそれなりに、恋愛に対してアグレッシブなようである。

 男子の方はすでに、意中の人が居るらしい。それぞれ聞き出したのだが、人の好みは千差万別だなぁと思った次第である。

 女子の方は…まだ、男子を男子とも思っていないようだ。みんなのことを想っている男子が、すぐそばに居るのだよ!と叫びたいのを黙って、ニヤニヤしながら見守る。人の恋路ほど面白いものはない。

 しかしそうして楽しみつつも、ショックを受けたのは事実だ。自分のあずかり知らぬところで、コトは進んでいるのだと思い知らされたからだ。

 気持ちとしては、「ぼくの知らないところで大人にならないで!」という感じである。気が付かない間にみんな恋人をつくったり、その恋人とイロイロをしたりしていると思うと、素直にさみしい。

 たぶんそれは、そういうことを自分ができていないからというさみしさではない。

 例えるなら、母親を見失ってやっと追いついたと思ったら、見知らぬ男と楽しそうに談笑している姿を目撃してしまった子どものような気分である。

 自分としてはかなり親密になったつもりで、話せないことはないと調子にのっていたら、そんなことはないというのを突きつけられた時の切なさは、筆舌に尽くしがたい。相手のことを好きであればあるほど、知らない面を見つけてしまうのは怖いことだ。

 もしかして「恋」とは、相手の見えない部分に対する「気になる度合」が閾値を超えてしまった状態のことを言うのではないだろうか。

 相手のことをほんの少しでもいいから知りたい、どんなことで笑顔になるのか知りたい、いつ涙して、なにで怒るのか知りたい。相手への貪欲な知識欲が「恋」なるものではなかろうか。

 そうだとするなら、片想いが一番楽しいというのは、「相手を知らない状態」を一番無邪気に楽しめる時期だからだ。

 相手の知らないところを想像するのが楽しくて、日常の中で少しでも知ってるところが増えていくのが嬉しくて、もっと知りたい、理解したいと日々気持ちが膨れ上がる。そういう気持ちが片想いだ。

 恋人関係になってしまえば、最初は知らないところを知れることが新鮮でたまらなくとも、いずれそれは慣れたことになってしまう。習慣化してしまえば、恋は立ち枯れるのである。

 うおお、すごい。なんだか今日の私は冴えているぞ。恋愛の真理にせまりつつある気がする。このままいけば、いつかは真理の扉を開いて、恋という不可解なものを解き明かす日がくるかもしれない。

 しかし一つ問題がある。

 私自身が恋愛してない。

 いかん、このままではいかん。

 先ほど、「習慣化してしまえば、恋は立ち枯れるのである」なんて偉そうに言ったが、その前に私自身の心が立ち枯れてしまいそうだ。枯れ木も山の賑わいとはいえ、枯れた私がなにを賑わわせることができるというのか。

 あぁでも今の私には、愛しい後輩がたくさんいるし…。

 恋愛というのではないが、愛を注ぐ対象がたくさんいるので、しばらくは彼らに溢れんばかりの愛を注ごうと思います。

 愛が重い!