山道のメロディ

どうしよう、あなたに出逢うまでの私忘れちゃったわ――

 いきなり鳴り響いたYUKIの声に、びっくりして目を覚ます。確かこの曲は、少し前にはやったアニメの主題歌だった。歌い出しが好きで、お気に入りの曲だった。

「…もしもし」

「あ、康太?俺だけど」

 俺が出した、起き抜けの不機嫌な声をものともせずに、暢気な言葉が返ってくる。「俺だけどって、オレオレ詐欺かよ。名を名乗れ」とぶっきらぼうに聞いた。とはいえ、この着信音を鳴らす電話番号は、この世に一つしかないのだ。

「なんだよ、わかってんだろ?恭平だよ、あなたの飯田恭平です」

「いま何時だ」

「午前三時ですな」

 まったく悪びれる風も無い。この男の神経はよっぽど図太いか、もしかしたら退化しているのかもしれない。

「で、なに?」

「いやー、それがさぁ、ちょっと話があって。実は、もうお前の家の前にいます」

「はぁ!?」

 驚く声にノックの音が重なる。まさかと思いながらドアを開けると、まるで当然のような顔をして恭平が立っていた。彼はにっこり笑って言った。

「さぁ、出かけよう」

 状況がつかめないまま助手席に積み込まれ、俺は恭平が運転する車に揺られる。

 恭平は、中学時代からの同級生だった。高校、大学と一緒に過ごしてきたので、付き合いはかなり長い。サッカーをずっと続けていて、いかにも運動してます系の、健康的な褐色の肌をしている。髪の毛はいつでもボサボサで、外で走り回った後の犬みたいだ。背が高い上に筋肉質だが、笑うと人懐っこい顔になるので、いろんなところで「大型犬に似ている」と評判である。

 文系で、背も低め。本が好き。視力も悪いし、運動が死ぬほど苦手な俺は、恭平とは正反対のタイプだ。

 仲良くなったきっかけは、図書室に居る時に話しかけられたこと。今でもよく覚えている。帰宅部だった俺は、放課後はいつも図書室に行っていた。司書の先生は腰が悪くて、本の整理を手伝ったりしていたのだ。人と関わることに臆病で、友達がいなかったせいもある。

 その日は図書室にやたらと本がちらばっていて、それを整理していた。暇な不良が、図書室にある漫画本を読み散らかしたり、適当な本を出してきてはパラパラッと見てそのままにしていくせいだ。またかと思いながら丁寧にあるべき場所へ本を返す。整理が終わって、ふっと振り返ったら目の前に見知らぬ同級生が立っていた。がっしと肩を掴まれて、「オススメの本を教えてくれ」といきなり言われ、目を白黒させる俺。学校で誰かに話しかけられることさえ少なかったから、とにかくびっくりして、言われるがままに何冊か本を薦めた。見知らぬ同級生は、ご機嫌でお礼を言って、名前も名乗らずに図書室から出て行ってしまった。それからことあるごとに本の感想を言い合ったり、オススメの本を教えたりするうちに仲良くなった。名前を知ったのは、話すようになってしばらくしてからである。

 あれ以来随分長く付き合ってきて、恭平の突拍子もない行動にも慣れてきたつもりだった。しかし今回は、群を抜いて意味が分からない。なぜ俺は今、深夜の道路を友人の運転する車に揺られているのだろう。本当なら家のベッドでぬくぬくと寝ているはずだったのに。相談が済めば帰してもらえるのかと思って、声をかけてみる。

「なぁ」

「なんだ」

「話ってなんだよ」

「んー、そうだなぁ。それは目的地についてから話そうかな」

 こういう言い方をされる時は、なだめてもすかしても何も教えてくれない時だと、経験的に知っていた。こいつが相談事だなんて珍しいし、切り出すタイミングも決めているのかもしれない。諦めて座席に深く体を預ける。

 同級生の運転する車に乗るのは初めてで、少し不安だったが、案外手慣れた風にハンドルを操っている。深夜で人通りが少ないからと、赤信号を無視したりもしない。道路交通法に対する敬意を、俺の睡眠時間にも払ってほしいくらいだ。

 そんなことを考えているうちに、うつらうつらとしてしまう。いつもなら寝ている時間だし、車の揺れが心地よくて、眠りのふちに連れて行かれる。

 ふわふわとした気分で気持ちよくなっていたら、何度目かの赤信号で車を止めた恭平が、いきなり頬をつまんできた。できるだけ不機嫌な声で返してやる。

「なに」

「いや、寝ちゃったのかなーと思って。それからほっぺた柔らかそうだったから」

 そう言いながら、屈託のない笑顔で、グニグニと頬をこねくりまわす。

「寝てると思ったなら、そっとしといてくれよ…」

「えー、だって触りたかったし」

 あまり人と触れ合うことに慣れてない俺は、こんな風に恭平に触られるとドギマギしてしまう。そしてそれがバレるのが気恥ずかしくて、触れられるたびに憎まれ口が飛び出す。

 信号が青になって、恭平が運転に戻った。

 ゆったりとしたペースで真っ暗闇の中を進む車が、まるで深海を進む潜水艇のように思えてくる。音も光も無い世界で、俺と恭平の二人だけをその腹の中に納め、静かに泳いで行くのだ。俺の意識は、その海の中を、どんどん深く沈んでいった。

「おーい、康太。起きろー」

 恭平に肩を揺すられて、目が覚める。ずいぶんぐっすり寝入ってしまったみたいだった。あたりを見回すと、山の麓の駐車場に居るようだった。不安が頭をもたげるのを感じる。

 俺はおそるおそる聞いてみた。

「え、まさか…これから山を登ろうとは言わないよな?」

 恭平は無言で運転席から降り、助手席側に回ってドアを開け、屈託のない笑顔を向けてきた。拒絶されることなんて全く考えてない、従順な犬のような笑顔だ。そして、そっと手をさしのべてきた。

「さぁ、行こう」

 俺はため息をついて、その手をとった。

 暗い山に入っていくのは少し怖かったが、道は整備されていて歩きやすかった。ところどころ歩きづらい場所もあったが、そこは恭平が手を貸してくれて、やっぱり俺はドギマギしながらその手につかまって、山を登った。

「なぁ」

「なに」

「なんで山なんだ?」

 深夜に山道を登る。大学生の男が二人で。わけがわからない。

「理由はあるけど、まだ秘密」

 決して厳しい言い方ではなかったが、教えてくれる気が無いのは口調から分かった。

 ザク、ザク。ザク、ザク。黙々と二人で歩く。耳に聞こえてくるのは、地面を踏みしめる足音ばかりだった。静かな夜だった。ちっとも現実感がなくて、このまま歩いていたら、違う世界にたどり着いてしまいそうな気がする。少しだけ、恭平と二人で違う世界まで冒険するのもアリかなと考えた。

「実は話ってのは、恋の話なんだよね」

 唐突に恭平が話し出す。

「なぁ。今すぐ下山をしようと思うんだが、どうだろう」

「車のキーは俺がもってるけど」

 そうだった。どうやら俺はこいつについて行くしかないらしい。ていうかこれって、もはや脅迫なのでは。恭平と冒険なんてしたら、寄り道をさせられまくった挙句、隠しボスとかに遭遇して死んでしまうに違いない。もしくはずっと始まりの街から出られないとか。

「恋ってお前…俺の恋人いない歴知ってる?」

「年齢」

 図星である。自慢じゃないが、いままで恋人がいたことなんて、一度もない。

「そうだな、その通りだ。その俺になんで恋の話なんだよ」

「なんでとか聞かれても…なんとなく?」

 そうかい、なんとなくで俺は真夜中のハイキングに連れ出されたわけかい。

「…もし夜の山に踏み込んだバカが、足を踏み外して転落死しても、事件じゃなくて事故だよな」

「大丈夫だ、お前が落ちそうになった時は、俺が身を挺して守る」

「そうだな、俺の代わりに死んでくれ」

 目の前を歩く能天気男のことは諦めて、足元に注意を払うことにする。いくら道が整備されているとはいえ、気を抜いて歩いていると転んでしまいそうだ。静かな山の中に響く足音は、不思議と心を静めてくれた。

 それからまたしばらく、無言で足を動かす時間が続く。目の前を歩く大きな背中は、確かな足取りで進んでいて、同い年なのになんでこんなに違うんだろうという気持ちを抱かせる。絶対に置いて行ったりはしないと分かっているのに、離れていかないように服を掴みたくなる衝動に駆られる。

 恭平は俺に平気で手を貸してくれるし、触ってきたりするけど、俺から触ったらどう思うんだろうか。意識してしまうと体がこわばって、自然な動作で触れられなくなる。そして結局触れるのを諦めて、触れてもらえないかなと、少し期待してしまう。触れ合うことを望んでいるのだ。

「ほら」

 ちょうどそんなことを考えている時に、足元が危ういところに差し掛かって、恭平が手を伸ばしてくる。おずおずと手を伸ばすと、ぐいっと引っ張って手助けしてくれる。男らしい強い力だ。

「べつに、手なんか、貸さなくても、登れ、るって」

 さすがに息があがってきて、分節を区切りながら言う。

恭平も「まぁ、いちおう、危ないし、な」と、分節を区切りながら返してくる。

「危ないって、わかってる、なら、夜の山とか、連れてくる、なよ」

「まぁ、まぁ、そう言わず」

 ザク、ザク。ザク、ザク。響く足音と、独特なリズムの会話から、ふっと頭の中にメロディが蘇ってきた。体を動かして少しハイになっているのか、そのまま口から歌詞が流れ出す。

 どう、しよう、あな、たに、であうまでの、わたし、わすれちゃったわ――

 恭平がチラリとこっちを振り返って話しかけてくる。

「康太も、その曲、好きなの?」

「うん。歌い出しが共感できて、好き。お前も?」

「いっしょだな。俺も歌い出しにビビッときた」

 思わぬところで好きなものがつながって、思わず嬉しくなる。しかしそれと同時に、恭平が自分の知らないところで、今までの自分を忘れてしまうような出会いを経験していた事実に、チクリと胸が痛む。自分が恭平と過ごした、中学や高校時代の笑顔が遠く思えて、少し意地悪なことを言ってしまう。

「お前に、こういうのに共感する、繊細さがあったとはな」

「失礼だな!それに今の状況も、あのタイトルと似てるじゃん?」

「え?」

 坂道のメロディ。少し照れくさそうに言う横顔が、出会ったころの、少年らしくやんちゃだった恭平を思い出させた。中学校のころから比べて、こいつは随分でかくなったけど、中身は変わってない。俺はちゃんと覚えてる。

「坂道っていうか、山道だけどな」

 ぶっきらぼうにそう返すと、ぷっと吹き出して、「そうだな、山道だ。山道のメロディ」とおかしそうに繰り返す。

 つられて俺まで笑ってしまったところで、恭平の笑顔の向こうに広い空が見えた。思わず二人して、最後の少しを駆け足で登りきると、一気に視界が開ける。

 目の前に広がるのは、夜明け前の静けさを孕んだ、紺色の世界。夜の静寂の下でふつふつと湧き上がっていた新たな始まりへの期待が、今にも弾けようとしているような景色だった。しんと冷えた風が、汗ばんだ体を労わるように、柔らかく撫でていく。目を閉じて、深呼吸をしてみる。

 恭平が珍しく、少し不安げな声で言った。

「なぁ、康太。さっきの曲の歌いだしが好きだって言ってたけど、今までの自分を忘れちゃうような出会いがあったのか?」

 いつになく頼りなげな声音に、少しだけ動揺する。

「ま、まぁな。結構前だけど。あれ聞くと、その時のこと思い出すなって」

 お前はどうなんだよと、話を逸らしてみる。

「俺か?俺はなー、あったんだよ。とは言っても、お前と同じでけっこう前」

 はにかむようにしながら、恭平は話し出した。

「それまでは、いろんなこと適当にやってて、サッカーも別に一生懸命じゃなかったし、毎日つまんなかったんだ。なんか面白いことねーかなって言いながら過ごしてた。

 そんな時に、たまたま部活サボって、放課後図書室に遊びに行ったらさ、図書室の中をゴソゴソ動き回ってる同級生がいるじゃん?なにしてるんだろうなーって思いながら見てたら、そいつ本の整理してるの。唇をちょっと突き出して、つまんなそうな顔しながら。

 それで全部片づけ終わった後、そいつ笑ったの。満足そうに。その顔がなんか可愛いなと思って、話しかけてみたら、これがまた面白くてさ!今まで本とか読んだことなかったから、次はなに読もう、なに話そうって考えたら、毎日楽しくって。それで…」

「ちょ、ちょ、ちょっと待った!!」

 思わず口を挟んでしまった。あんまりにも知ってる話だったからだ。だってそれは、俺の昔話でもあるんだから。

「相談って一体なんだったの?」

「え、俺、話があるってお前のこと呼び出したつもりだけど」

「じゃ、じゃあ話って…」

 声がうわずるのを抑えきれない。

「こんなとこまでわざわざ連れてきて、さっきみたいな打ち明け話までして、まだわかんない?」

「え、いや、それは」

「康太のことが、あの頃からずっと好きだ。恋人になってほしい」

 ずっとため込んでいたものを吐きだした解放感で、恭平の笑顔は柔らかだった。嬉しそうな笑顔の向こうから、太陽が顔をのぞかせる。

 自分の顔がぶわっと熱くなったのを感じた。喜びと、戸惑いと、昂揚と、動揺がいっぺんに来た。朝日と、屈託なく笑う恭平が眩しくて、思わず視線を逸らしてしまう。

 それを見た恭平が、一気に不安そうな顔になって、「や、やっぱ嫌だよな…ごめん、こんなとこまで連れてきて…」としどろもどろになって弁解を始める。

 そんな姿を見ていられなくて、俺は思わず叫んだ。

「い、嫌じゃない!」

 そうだ、嫌じゃない。むしろ嬉しい。だって、気持ちは俺も一緒だったから。恭平と出逢って、仲良くなって、ずっと人と関わるのを避けてきた自分が変わっていくのを感じてた。それまでの自分がどんな風だったのか、忘れてしまうくらい。

 きっと人は、人と出逢うことで変わっていけるのだ。不安も戸惑いもたくさんある毎日で、それでも思い出すだけで元気をくれる人と出逢うこと。それがどれだけ、毎日を明るくしてくれることだろう。深呼吸して、顔を上げる勇気をくれることだろう。

 変わろうと思った。今はまだまだ素直じゃなくて、自信も持てないけど、そんな自分のことも忘れてしまえるくらい変わろうと思った。恭平の気持ちが嬉しくて、胸の中がどんどん温かくなっていく。

 手始めに、目の前で不安そうな顔をしている恭平を安心させるために、自分から人に触れられるようになろう。

 そう思って、自分が耳まで真っ赤になってるのが分かったから、顔を伏せたままパッと手を握った。

「嫌じゃない。むしろ、その、う、嬉しいというか、なんというか…お、俺も、す、す――」

 いや、無理だ、さすがにこの一瞬で変わるのは無理だ。一気に手に脂汗がにじむ。言葉が喉につっかえる。

 どうしていいか分からなくなって、目をぎゅっと閉じたところで、あたりがふっと暗くなる。それと同時に、洗濯物の匂いと、なんとも言えないような甘い匂いがまじりあった、温かいものに包まれた。

 状況がちっとも分からなくて、一瞬頭が真っ白になる。それから抱きしめられていることに気付いて、山を登ったばかりだし、汗かいてるし汚いしと、ぐるぐる考えていたら、頭の上から声が降ってきた。

「お前から触ってくれたの、初めてだし、めっちゃ嬉しい。もし…もし、嫌じゃなかったら、ちょっとだけ目をつむってくれるか」

 急展開にびっくりして、でも嫌だなんてちっとも思えなくて、それでも躊躇があってしばらく抱きしめられるがままになった後、意を決して目をとじた。

 心臓が肋骨を突き破らんばかりに鼓動しているのを悟られないように、少しだけ身を離そうとしたら、一層強く抱きしめられて、頬に柔らかくて熱いものが触れたのがわかった。

 下山しながら、「なんでほっぺたなんだよ」と少しだけ意地悪を言ってみたら、「いや、そのさすがに外で唇にちゅーするのは…」と、しどろもどろで弁解された。調子にのっていじめてたら「なに、康太は唇にちゅーされたかったの?」と反撃をくらう。真っ赤になって黙ったら、それを見た恭平まで真っ赤になってしまって、しばらくした後にボソリと「唇でも、悪くはなかったけど」と呟いたら、いよいよ会話がなくなってしまった。中学生レベルの恋愛である。いや、今どきの中学生は、俺たちより進んでいるのではないだろうか。まぁきっと、俺たちにはこれくらいがちょうどいいのだ。

 気まずさに耐えきれず、「ていうか、なんで告白するのに山だったんだよ!」と話を逸らしてみる。

「だって康太、猫の男爵が出てきて、夜明け前に女の子が連れ出されて告白される映画が好きって言ってたじゃん」

「え、そんだけ?」

「そーだよ!俺めっちゃ頑張ったんだからな!」

 中学校以来ずっと一緒にいたけど、こんな健気な一面もあったのだなと思うと、今度はかわいく思えてきた。自分より背が高くて男らしい同級生は、案外乙女な部分も持ち合わせているらしい。

 車の中でも何を話していいのか分からなくて、今までどうやって会話していたのか考えているうちに家についた。

 話すことはないのに別れるのはなんだか惜しくて、車の中で少しだけ手をつないでみた。ぐいっとひっぱられて、もう一度頬にキスされた。散々嫌だと言ったのに、俺がしたんだから康太もしてくれないと嫌だと主張され、俺も恭平のほっぺたに軽くキスした。恥ずかしさが極まって、逃げるように車をおりた。

 

 俺たちの関係は、これからもきっといろいろと変わっていくことだろう。いろんなことを忘れたり、覚えたりするのかもしれない。

 それでも今日のことだけは、きっと忘れないだろうと思う。

 山道のメロディは、これからも俺の中で響き続ける。