嗚呼、麗しき制服ジェンダーレス
ツイッターをぼんやり眺めていたら、とあるニュースに目を引き付けられた。
な、な、な、なんだってー!!
そんな、男子が当たり前のようにスカートをはいていたり、女子がズボンをはいていたりしてもなにも言われないような、夢のような学校ができるというのか!!
このことについて何やらいろいろ議論がかわされているようだったが、私は大賛成だ。もろ手を挙げて喜び、応援する。
「選択式」によって生まれるもの
今回の話のすごいところは、生徒それぞれに「選択の自由」が与えられたところだ。
これはつまり、「自分と違う選択をする他者がいる」のを、制度という形で分かりやすく示すということ。
あらかじめ制度として「制服選択制」があることを知り、その上でネクタイにズボンを選んだ男子は、「リボンとスカートを選ぶ男もいる」という可能性を知るだろう。クラスメイトに脳内でリボンとスカートを着せてみる子もいるかもしれない。私だ。
リボンとスカートの男子は、全校で一人か二人、いるかいないかという可能性もある。だけどそれを選んだ彼らは「そういう人もいるのか」という容認の中で過ごすことができるようになるんじゃなかろうか。
学校教育というのはとにかく硬直しがちで、「道徳とはかくあるべし」「子供とはかくあるべし」「よい人間ではかくあるべし」と「あるべき論」ばっかりだ。
もちろん、ひとつのクラスに三十人も四十人も生徒がいる状態で、それぞれの子にあった教育をするというのは難しい。それに学校は集団生活を学ぶ場でもあるのだ、規律を守らせるという過程でひとつのモデルを示すシステムは仕方のないと思う。
しかし実際のところ、学校という狭い庭ではびこりがちなのは「同調圧力」だ。
制服で、授業で、試験で、画一的な型に押し込められた彼らは、そこからはみ出すものを喜々としていたぶる。違っていることがまるで免罪符のようにかかげられ「だから何をしてもいい」となってしまう。
それは一つの箱に詰め込まれることで生まれるストレスの、はけ口なのかもしれないなぁと思う。
箱の中の例外を迫害しながら、だけどみんな心の中で「誰もが同じ人間なわけじゃない」ことを分かっている。だからなおさら、今度は自分が迫害のターゲットにならないように、例外をいじめる。同じものを攻撃しているから、私は敵じゃないですよ、というわけだ。
画一化された環境の中では、誰かがその規格を正しいと宣言していなくても、中にいる人間が勝手にその規格を正しいと思い込んで、こういう現象が起きがちだ。
人間はとかく例外に厳しい。差別、迫害の歴史はいつだって「違っていること」から始まっている。みんな違ってみんないいは、現実ではなかなか難しいのである
しかし逆から考えてみると、初めから制度に認められているものに対して、おおっぴらに攻撃的になることは少ないように思う。それは「制度に認められている=それを認めないような行為をとれば、制度側から罰される」という恐れがあるからかもしれないが。
制度の方で「こういう人もいるけど、みんな同じです」と宣言してやれば、そんなもんかとたいていの人は納得するのである。
そういう意味で、今回この学校が制服を選択式にしたのはほんとうにいいことだと思うのだ。
なにがいいって、実際に違う制服を選択しなくても、「違う選択肢もあって、それを認められている」という環境ができていることがいい。
それになにより、コンプレックスを抱えている誰かが、自分の心の中で「制度でも許されてるんだから、大丈夫」と思うことのできる空間が生まれるのがいい。
選べなくても効果十分
実際に違う制服を選ぶのは、勇気のいることだろう。
これまで男子の制服で過ごしていたのに、急にスカートを履きたいなんていいだしたら、間違いなく親は「どうしたの?」と聞いてくる。
私が親ならさらに詳しく「もしかして女の子になりたかったの、クラスに好きな男の子がいるとか? 化粧品とか必要? もちろんスカートでいいんだけどせっかくだし普段着にもスカートとか買う?」などと畳みかけてしまうこと請け合いだ。
自分の子どもにいらぬ心の傷を負わせてしまいそうである。むしろ「私はそういうのに理解がある」ということを示すために、R18ではないボーイズラブなマンガなどを部屋においておこうか……ああ、でもそれをきっかけに息子がその道に目覚めてしまったらどうしよう!
やはり素知らぬ顔をするのが正解か、子どもの自己が確立されたころに、しれっとコミケなどに出かけて、戦利品のはいったカバンを見える場所に置いておこうか……。
できる予定のない自分の子どもの話をしたかったのではない。
結局のところ、「自分はスカートのほうがいいのだ」と言い出せずに、ネクタイとズボンで学校に通うことになったとしても、「そういう選択肢も許されていた」と思えることが重要なのだ。
少年少女たちは、日々寄る辺なさを感じて生きている。
その寄る辺なさは、いわゆる「当たり前」から自分は外れてるんじゃないかという恐怖から生まれる。
しかし当たり前の個人などいないのだ。人はそれぞれの背景を持ち、独自の考えを持つ別人なのだ。当たり前など存在しない。
まぁそんなことを言っても、道徳の教科書のごとく少年少女の脳みその上を上滑りするだけだろうが。
だから「当たり前」の幅を広げてやる。
もちろん制服を選択式にしたからといって、子どもたちが「当たり前」の檻から抜け出せることはない。世の中にはびっくりするほど「当たり前」の檻があるからな。
だけどまぁ、ちょっとだけ生きやすくはなるだろう。自分は制度の中にいるのだと、社会からつまはじきになどされていないのだと、思うことができるだろう。
それは自分自身を見つめる上で、とっても大事なことだと感じるのだ。
余談だが、自分がゲイであると同時にショタコンだと気づいた男子中学生の当時、「じゃあ俺はリアルタイムでショタたちの日常をこの目に収めつつ愛でることができるってこと!?」と、開き直って大興奮していたのをおぼえている。
胃が痛くなるほど思い悩み、朝起きては吐き、学校でいじめられ、それでも仲睦まじい男子たちの様子に萌えてしまう。なぜそんな満身創痍になってまで求める癒しが「ホモ」だったのかを当時の私に問い詰めたい。
そしてもし私の通っている学校が男子でもスカートオッケー、女子でもズボンオッケーな学校だったなら、あの苦しみも少しはマシだったのかもしれないなあと思わなくもない。
そしてさらに余談だが、ズボンを選ぶ女子はたくさんいても、スカートを選ぶ男子はやっぱりなかなかあらわれなさそうだ。
そもそもあのスカートというもの、防御力が低すぎでは。垂らした布一枚、すぐ下にはパンツって、正気とは思えない。頼りなさに思わず内またになってしまう。
なんで知ってるのかって? それはもちろん履いたからです。
リボンをつけてズボンを履いてる女子とか、めちゃくちゃ人気が出そうだ。
「ほんとはリボンもイヤだったんだけど、親がどうしてもイヤじゃないならリボンにしとけっていうから……」
なんて恥じらおうもんなら、ファンクラブ勃発ものだろう。
はぁ、私が子どもだったら間違いなくこの学校に進学するのに……実際にスカートを履いている男子が重要なのではない、「この男子がスカートを選んでいたかもしれない」という可能性があることが重要なのだ。
いざ制服を選ぶ段になってスカートを選ぶか少しだけ迷ってしまう男子は尊い。その迷いのせいで「もしかして俺、スカート履きたい……?」と思ってしまう男子はなお尊い。履いてみてその防御力の低さに赤面し、股を抜ける風に頼りなさを感じて内またになってしまうがよいわ。
制服選択制と、スカートに惑う男子たちに、幸あれ。