「手紙」

 最近メディアになにかと椎名林檎さんが登場していて、中学二年生のころから彼女のファンな私はひそかに小躍りしている。今年も紅白に出場されるそうで大変めでたい。

 中二で椎名林檎のファンになったとか、みごとに厨二病まっさかりだったのでは? とかいうのはやめてください死んでしまいます。

 

 

 ぐうの音も出ないとは、このことだぜ! 

 

 

 

 そんな椎名林檎さんは、みなさんご存知「東京事変」のメインボーカルでもあらせられました。残念ながら解散してしまったんですけど、今でも好きでよくアルバムを聞いています。

 その中から今日は一つ、私がめっちゃ好きな「手紙」という曲の話をしたいなと。昔話していた友だちからの受け売りとかもあるんで、話半分に聞いてもらえたらいいんですけど。超個人的な解釈なんで「いや俺は違うぞ!」って人は、コメントなりTwitterなりで持論を展開してください。

 

 この曲は「大人」というアルバムのラストに収録されていて、バラード調のゆっくりしたメロディから始まる。バラードというか、オーケストラ的な? その辺の詳しい表現はイマイチなので、気になった方はぜひ聞いてみてください。

 そしてこの曲、メロディが美しいのもそうなのだけど、とにかく歌詞が美しい。私が持つイメージは「縁(ふち)に背筋を伸ばして立つ人」だ。

 

 なぜそんな風に思うかというと、この曲がいきなり別れから始まるからである。

 

前略

貴方が今日その手を隠しても 代わりに瞳が何かを捕らえ

独りでにまた研ぎ澄まされて 新しい何かを携えるでしょう

確信を持つのは当然なこと なぜなら

貴方はもう群青(あお)さに甘えずに 戻らない路を選ぶと言っている

私ももうため息は漏らさない 美しい貴方の決断がため

 

 もうしんどい。貴方が隠しても私にはお見通しなのよ、だけどそれを尊重するわねってスタンスがしんどい。私たちはとかく「なぜなの」「どうしてなの」と相手を詰問してしまいがちだけど、こんな風に誰かの考えをそっと受け入れる強さを得たいものだ。

 そしてそこから続くストーリーが、もうどうしようもなく胸を打つ。

 

大人になった私達には 何時でも答えが要るんだね

「恐い」と惑っている間にも 生命(いのち)は燃えてしまう

祈っているよ貴方の色が どんなに酷く澱んだって変わらないさ

伝えたことはるか遠くで方位を失っても どうか覚えていて

私はずっと唄っている

 

  まず前半、これは私のことだ。いつでも「答え(はっきりした何か)」がないと、恐くて行動を起こせずに二の足を踏んでしまう私と、お構いなしに流れていく時間。何度自分を投影して、「なんで一歩踏み出せないのよもう、私のバカバカ」と泣いたことか。

 そして後半では、最初に「貴方」を見送っていた「私」がメッセージを告げる。「貴方」がどんなに変わってしまっても、私は変わらずに貴方の幸せを祈っていますと。もし「貴方」が迷ったとしても、私は貴方の過去で、変わらない場所でずっと唄っているよと。

 どんだけ潔いんだ。

 

昔はもっと季節の過ぎ行く速度が 遅く思えていたのに

近頃何だか速くなるみたい 為すべきことが山積みになる

 

  ここでまた「あぁ~わかる~」となる。

 年を重ねれば重ねるほど時の流れは速くなって、気が付けば身の回りには為すべきことばかりだ。うかうかしてたらあっという間に一年が終わってしまう。

 ていうか今だって十二月だし! もう年の瀬なんて信じられないよあたしゃ。

 

大人になった私たちには 今直ぐ答えが欲しいよね

途中で迷っている間にも 生命が芽生える

願っているよあなたの夢は どんなに濁る世界だって壊せないさ

望んだ侭突き進んでいて方位を誤ったら そっと思い出して

 

  前半の「生命が芽生える」というのは、時が流れて新しいものが生まれ、世界が変わっていくということではないだろうか。答えがもらえなくて二の足を踏んでいる間にも、周囲はあっという間に変わってしまうんだぞと。またしても私は自分のハートがシクシク痛むのを感じる。確かなものが欲しいと願う間に、世界は私を置いてけぼりにしてしまうのだ。

 後半ではまた「貴方」への「私」の想いが綴られる。貴方の夢を尊重し、汚いこともある世界の中で貴方の夢が壊れてしまわないよう願っている。貴方の望むように歩んだ先で道を間違ってしまったなら、最初の気持ちを思い出してと願っている。

 一番では「私」が伝えたことを憶えていてというのに対して、二番では「貴方」の最初の気持ちを思い出してと言っているのが印象的だ。

 

追伸

背負っても潰されないのは 今日も貴方が生きていると信じていて

疑わずにいるからなんだよ(ほんの些細な理由)

どうかお元気で

 

 ここで、「私」は「貴方」とは、もう生死すらわからない間柄なんだと明かされる。ここまでの物語は「私」が勝手に「貴方」のことを想って形にした手紙だったのである。もしかしたらそれは、永遠に届かないラブレターなのかもしれない。いや、ラブレターと言うには清々しすぎていて、やっぱり手紙と呼ぶのが適切だろう。

 そして最後の一節。私はこの「どうかお元気で」に涙を禁じ得ない。

 ここまで「何時でも答えが要るんだね」「今直ぐ答えが欲しいよね」と歌っておいて、最後に返事を求めず、ただ「どうかお元気で」と告げる。これほど清い別れの言葉があるだろうか。

 人間はどうしても見返りを期待してしまいがちなもので、人間関係においてそれは目に見えない感情となって他人に襲い掛かる。言葉の裏にはいつでも本心があって、それはどんなに押し隠してもふとした弾みに漏れ出てしまうものだ。それは人と人とが関係を持つ以上仕方ないものである。

 だからこそ「手紙」の締めくくりに、「私」は「どうかお元気で」と別れの言葉をつづったのではないだろうか。それは返事など必要ない、私はただここで貴方のことを想っているだけで、貴方は私のことなどかまわずに歩んで行けばいいという、別離の印である。

 私の脳内には道の果てで手を振る女の人が見える。にっこり笑って「それじゃあね」と誰かを見送っている。

 

 

 

 というわけで、好きな曲への勝手な解釈を書き綴ってみた。もちろん解釈は人それぞれで、これはあくまで私の解釈でしかない。それぞれの人がそれぞれの楽しみ方で楽しめばいいのである。

 ただここまで書いていて、私は勝手に「手紙」を「別れた男と女の曲」と思っていたが、もしかしたら「過去の私が未来の私へ向けた曲」でもあるのかもしれないなと感じた。

 「群青(あお)さ」や「大人になった私達」といった表現と、最初にいた場所から動いていない「私」という存在が、どことなく未来の私の幸せを願う純朴な過去の自分、という印象を持たせるのだ。

 椎名林檎、ひいては東京事変を好きになって、気が付けば十年近く経っている。その間に曲の受け取り方も随分変わった。

 

 椎名林檎さんの人を惹きつけてやまない魅力のひとつは、その楽曲が人の成長とともに、楽しみ方を変えられるほどの含みがあることかもしれない。